社会の荒廃が及ぼす道徳観の衰退と孔子の教え

2016年のレポートで哲学者孔子の偉業を取り上げました。今から2500年前の時代末期、中央政府の弱まりとともに地方の諸侯の覇権戦争が絶えなくなりました。の統一(BC221)まで550年間も混乱が続き、この戦国時代には道徳・倫理観が衰退しました。この荒廃の時代に社会の秩序、処世術を説くべく思想家たちが現れ、儒教の祖である孔子もその一人でした。春秋時代、孔子(BC551BC479年)は混乱する世の中をどうすれば平和にすることが出来るか思慮深く考えました。道徳観がすっかり衰退してしまっていることを嘆き、世の中を人間の内側から改革しようと、孔子は人間とはどうあるべきか解き明かし、それを纏めたものが孔子の人間観を示す论语(論語)です。孔子の教えは日本人には馴染み深く「四十にして惑わず五十にして天命を知る六十にして耳順」の他、「義を見てせざるは勇なきなり」、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」などはよく知られた格言です。孔子は人間を観察し鋭い名言も残しています。「巧言令色少なし仁」は「巧みな弁舌や取り繕った表情の人には、思いやりの心は殆どない」の意味で成程と思わせます。徳川家康の「人の一生は重荷を負ひて遠き道を行くが如し急ぐべからず」という言葉も論語の「任重くして道遠し」を踏まえたものと言われています。

近代において道徳・倫理が衰退した出来事としては、19661976年の10年間に亘る文化大革命が挙げられます。毛泽东[mao2ze2dong1]と4人組が率いた悪しき大衆運動は過去を否定し、この時期に伝統文化や文化財が破壊され、更には社会規範と行動様式、人々の道徳・倫理観も変わってしまいました。政府はこの運動の行き過ぎを鎮静化するため、活動の中心となっている学生を農村に送りこみ農作業に従事させました。この結果、今の70歳代後半の人は、まともに教育を受けさせて貰えなかった人が大勢います。社会的不公平と貧富の差が拡大し、中国人の価値観をも変えてしまうような甚大な被害をもたらしました。この結果、中国人の古き良き美徳も失われ、要領よく儲ける拝金主義や派閥意識、個人主義の出現で譲り合い精神が乏しくなり、モラルが低下したと今の中国人の嘆きを当地でよく耳にしました。衣食足りて礼節を知ると言うことでしょう。この文化大革命の後に登場したのが邓小平[deng4xiao3ping2]です。同氏は改革開放路線へ方向転換し、中国を目ざましい発展へと導きました。

さて孔子の頃の日本は弥生時代、中国の古文書「魏志倭人伝」で当時の日本を知ることができます。稲作が普及するに伴い、稲作に必要な土地や水を巡る争いや、米と言う財産を略奪から守るためにムラとムラで戦争が起こるようになりました。当時100余りの小国が戦いに明け暮れていたと記載されています。戦争とは「富を独占する集団心理」であり、人類の歴史は戦争の歴史であると言えます。戦争は人間の道徳観を破壊し、ウクライナ戦争で報道される酷い行為はその最たる例です。戦争を考えることは人間の本質とは何かを考えることになります。孔子は戦争とは最も愚かな行動として人間の本質を表していると述べました。孔子の教えでは己所不欲、勿施於人(己の欲せざるところは人に施すなかれ)と述べています。「自分にされて嫌なことは他人にもしない」まして侵略戦争などは孔子が拒絶するところです。孔子は武力でなく人間愛(仁)と社会規範(礼)に基づく理想社会を実現しようと考え、論語では戦争を否定しています。

現在でも通用する孔子の名言を紹介しましょう。「過ちを改めざるをこれ過ちと言う」、「その人を知らざればその友を見よ」、「知らざるを知らずとなすこれ知るなり」、「過ぎたるはなお及ばざるが如し」などです。今から何と2500年前に論語が産み出され、今でも通用することに驚きを禁じ得ません。古代人も現代人も人間としての大元は同じ、現代は文明が進んではいますが、人間の本質と言うのは時代が変わっても成長していないものだと言えます。

孔子の教えで温故而知新,可以为师(温故知新;故きを訪ねて新しきを知る)があります。人間の本質が変わらないからこそ、過去を学び、そこから新しい知識や道理を得て、同じ過ちをしないことが大切であると説きました。

 

(写真:中国小学五年生向け道徳教科書〈首都師範大学出版〉

中国古代~詩人屈原と合従連衡

ウクライナ戦争の報道を見て成語の戦国時代の“合従連衡”が頭に浮かび、いつの時代も人間とは変わらないものだと感じました。

かつて西安市にある会社食堂で端午の節句(55) 粽子(zong4zi)「ちまき」が出た際、中国人同僚が詩人屈原(qu1yuan2)粽子の関係と由来を教えてくれました。

屈原は戦国時代(BC770~221年)の有名な詩人でした。その後の唐時代(AC618~907年)に入ると春望「国破れて山河あり」の杜甫(du4fu3)静夜思「静かな月の世に思う」の李白が登場します。

私が学習発表会の時、李白の“静夜思”を演じ、中国へ赴任後或る家族の前で披露したところ大受けでした。

古代の詩人はどのように収入を得ていたのか気になります。官職に就くなど二足の草鞋を履いて生計を立てていたようです。唐時代に日本から派遣された留学生の阿倍仲麻呂(AC698~770)は、(高級国家公務員試験)に合格し、唐の政府高官にまで登りつめたモノ凄い優秀な日本人でした。西安市の兴公园内に顕彰碑が建てられています。

屈原の時代は戦国時代、七雄の"魏”が戦っていました。その中でもが二強で他の国は五弱でした。その時代の有名な成語に"合从"(he2cong4lian2heng2)があります。当時のの国は、自国の独立を保持するために、合従策を取るか連衡策を取るか国を二分する激論がされていました。合従策とは、六か国が共同してと戦いの侵略を阻止するものです。今で言うロシアに対するNATOの軍事関係のようなものです。合従策を採用し、六か国が協力して大国のと戦うとしても、が一カ国に集中攻撃して来た場合、その国がの大軍と全面的に戦わなければならない羽目になります。結局、連衡策を採用し、六カ国が個別にと同盟を結びました。連衡策とは六カ国がそれぞれと友好関係を結び、の支配を回避する策です。しかし、隣国同士の関係が弱まって、隣国が攻めて来るのではないかという疑心暗鬼に陥り、これがの狙いでした。隣国同士の同盟関係は弱くなったタイミングでが攻め入り、秦が全国統一を果たしました。古代から現代まで、何度も合従連衡の繰り返しです。

屈原は国のことを深く思う高官で、は信用できないと考え合従策を提案しましたが、連衡策を押すメンバーの陰謀により失脚させられてしまいました。5月5日、都を追われ途中での都を振り返ると都に煙が立つのを見て、屈原はいよいよに攻め入られたかと絶望し、川に飛び込み死んでしまいました。村人は屈原の遺体が河の魚に食べられないように、魚の餌として蒸した米を葉っぱにくるんで川に投げ込みました。また河に住む竜を追い払うために、小舟を出してその上で太鼓や鐘を鳴らしました。その伝統が横浜ドラゴンレースや長崎ペーロン競漕に繋がっていきます。因みに中国の子供の日は旧暦55日、新暦6月1日となります。この日の中国のデパートでは、イベント会場に笹の葉っぱ、もち米と杏を無料で用意し、来場客はちまきを作っていました。日本ではちまきを食べる風習も廃れましたが、中国の一般家庭では今でもちまきを作ります。自分で作ったものよりお母さんが作ったちまきの方が美味しいと皆が一様に言うのには感銘します。子供の時に食べた懐かしい味、ほっとする安心の味を感じます。小さい時に経験した味は一生忘れないものです。

 

(写真:保定市万博デパート広場;ちまき作りのイベント)

中国の名医~古代から伝わる脈診法

保定滞在中、急に咳が止まらなくなり、河北大学付属病院へ診察に行ったことがあります。非常に立派な病院で、廊下には古代の名医の紹介パネルが展示されて興味深く見ていました。

その中に日本では馴染みがありませんが、歴史上最も古い医者“扁鵲”(bian3que4)が紹介されていました。扁鵲は漢時代をさらに遡る春秋戦国時代(BC770221年)の名医です。山東省出身で彼が考案し、誰でも知っている診察法が今でも残っています。それは「脈診法」です。脈診法とは、人差し指・中指・薬指を患者の脈拍に触れ、病気の性質を判断することです。私たちは脈診で何が分かるのだろうと思いますが、今のようにX線、CTMRTなど医療機器のない時代では重要な診察法でした。中医では、脈のパターンは28種類あり、脈で判断するポイントは三つと記されています。「脈の速さ」「脈の強さ」「脈の深さ」です。例えば風邪の引き始めの脈は浅く、指で押した時に脈が浅い表面で感じられるものです。一般に朝夕の脈はゆっくり落ち着いていますが、ストレスを抱えている場合はせわしなくなり、脈が不規則に打っていた場合は、脳梗塞の前兆を示すようです。

中医の原型はBC000700年に成立、BC200年の漢時代には人体の構造や病気の仕組み、鍼灸治療や健康法をまとめた黄帝内(huan2di4nei4jing4)が編纂されています。“黄帝”の名前が付くのは、皇帝と医者との問答形式で書かれたためです。これが中国最古の医学書で、現代においても中医の医師・漢方薬剤師・鍼灸師にとっては重要な古典医学書です。因みに薬局で売られている栄養ドリンク「黄帝液」の名は、ここから引用されているようです。

中医の中で一般的な治療となっているのは灸”zhen1jiu3)です。人体の特定のツボを押すと内蔵が良くなることを見付け、「針」で刺激することを見出しました。また人々が焚火にあたって暖をとっていた時、患部を温めると症状が改善したことから「灸」が編み出されました。

中医では身体を構成する三要素は「気・血・水」で成り立っていると考えます。気とは自立神経・内分泌系・臓器などをつかさどるエネルギーです。気・血・水の集中しているところがツボとなり、鍼灸はそれらの澱みを解消するものらしいです。よく「病は気から」と言う言葉を耳にしますが、免疫力は朗らかな生き生きとした気持ちで高くなり、心配事や不安、ストレスを感じると低下することが医学的に証明されています。

話は一転日本に移りますが、この頃は弥生時代。100以上の小国に分かれて「我こそが大将なり」とドンパチ戦いに明け暮れていた時、中国では薬物治療・鍼灸治療が実用化されており、非常に文明が進んだ先進国でした。中医が日本に伝わってきたのは、遣唐使以前の古墳時代(AC400年頃)、漢字を使い始めたのと同時期です。朝鮮半島を経由してやって来た渡来人は、文字・暦学・医学・儒教・仏教・政治制度等の文化や技術を伝え日本の発展に大きく寄与しました。

 

 

(写真:河北大学付属病院と脈診法)

春節~河北省の伝統行事

2022年の“春21日です。河北省の知人から伝統的な春節行事の紹介がありました。春節とは神仏や祖先を祀り、古いものを新しいものに替え、新年を迎える準備をし、新年の福と豊年を祈る風習、漢時代に完成しました。中国語では「師走」を“腊月”(la4yue4)と言います。春節は“腊月节から始まり、“祭灶节”,除夕”“元旦”を経て“元宵节まで一カ月以上続きます。現在は大晦日と元旦の二日間を春節と言い、前後合わせて7日間の連休になります。出稼ぎ者は故郷へ帰り、一カ月も戻らない人も多く、企業では業務維持に苦労します。河北省で昔から残っている風習と日本の風習を比べてみましょう。日付は旧暦で表わしています。

腊月八腊八(la4ba1jie2)128日、仏教の開祖「釈迦」がこの日に悟りを開いた日とされ、各寺院では色んな豆を入れた粥を煮て仏様に捧げます。家々では“腊八粥”を食べ、春節の始まりを祝います。日本の浄土宗ではこの日を「成道会(じょうどうえ)と言う法要を行います。この日、中国から受信したメールには、次のメッセージが添えられていました。

了腊八就是年,一年一团圆,愿新的一年,有衣暖身,有人暖心,万事粥全”

(腊八を過ぎれば新年です、一年に一度家族が集い、新しい年を祈って、身体を温める服が有って、心を温めてくれる誰かがいて、万事がお粥のように揃います)注1

腊月二十三祭灶节(ji4zao4jie2)灶王zao4wang2ye2)は家の「かまど」に祭られている神様です。古代から火は食事、風呂、灯明など必要不可欠なもので消えたり暴れたり災いが起きないように、火の神様を祀ります。火をよく使うこの時期にかまどの神を祀ってから、新年を迎える準備を始めます。この信仰は日本でも各地に残っており、12月はかまどのお神札を取り替えます。宝塚市の「清荒神清澄寺」が火を祀る神様として関西では有名です。

腊月二十四扫尘(sao3chen2)1224日は大掃除の日です。ほこりの尘”(chen2)は、 陈”(chen2)「古くて腐る」と発音が同じです。“除陈”の意味も持ち、古い物を取り除きます。1224日までに大掃除を終わらせると「年神様」がご利益を持って来てくれると言われています。色んな道具を洗い、カーテンやシーツを洗濯し、埃や蜘蛛の巣を払い、溝を掃除し新春を迎える環境にします。ほこりを払う扫尘は、日本の「すす払い」の由来となっており、「西本願寺」や「東本願寺」が年末恒例行事として有名です。

腊月二十五接玉皇大帝(jie1yu4huang2):中国語を学習していれば“老天と言う言葉を耳にした人が多いと思います。玉皇大帝の略称で天と地を支配する最高位の神様です。その神様がこの1225日に下界に降りて来て、世の中の善悪を調べ来年の「禍福」を定めます。家々では神様が降臨するこの日は、言葉を慎重に選んで良い言葉を使い、神様を喜ばせて来年の福を授かることを祈ります。河北省ではこの日から、正月料理の準備を始めます。その一つに“豆腐”があります。“腐”“福”が同じ発音となる“豆腐”は、家族皆が幸福になる“都福”に語呂合わせしています。

腊月二十六炖猪肉昔は生活が貧しく、春節にしか豚肉が食べられませんでした。この日が豚肉を煮込む日で、今でも農村部ではこの日に協力して一頭の豚をさばく村が多く、豚にとっては受難の日です。この日から正月用品の買い出しを始めます。

腊月二十七,八洗浴:この二日間に入浴と洗濯をしこの一年の厄を払い、新年を迎えるように清潔にします。27日は家禽の鶏を絞める日です。自分の家で食べたり市場へ売りに行き、売ったお金で“年品”や子供の服、爆竹・各種の正月飾りなどを買って帰ります。28日は麺や蒸パンを作って発酵させる日、翌29日は蒸パンを蒸す日です。

腊月三十除夕除夕は“夕”を除くと書きます。昔“夕”と言う怪獣が海底に住み、大晦日になると村を襲いました。神様に助けを求めたところ、神様は“年”と言う孫を差し向けた。“年”は小さいですが勇敢で、火花の出る竹筒と鮮やかな赤い幟(のぼり)で怪獣を追い払いました。それ以降、各家庭の玄関には赤い对联を貼り、爆竹を鳴らして大きな音を発生させ、一晩中起きているなどの習わしになりました。この“年”と言う漢字は、スーと伸びた幹に枝葉が茂っている形を表し、穀物が実る語源を持ち、“春节”とは農耕文化の祭りが発展したものです。

正月初一元旦“元”は始まり“旦”は夜明けを指す象形文字です。そこで河北省に住む知人に春節の気分を聞いたところ、「最近では生活が豊かになって、春節でしか食べられなかったご馳走がいつでも食べられ、普段の日の感覚と変わらなくなってきました」との感想が返ってきました。どこの国も同じように正月気分も薄れてきました。

1)この日に食べるお粥は、もち米の粥に栗や胡桃、棗、落花生、小豆、大麦、蓮の実など、多くの穀物を入れるので何でも揃うと意味懸けしています。

 

(写真左:保定市人民公園での2022年春節の飾り付け、写真右:保定市蓮池文化センターで対聯を書くイベント)

漢時代~文帝覇陵を遂に発見

昨年(2021)12月、中国からビッグニュースが舞い込んで来ました。以前、紹介した漢王朝の第五代皇帝“文帝” (BC180BC157)の陵墓が、1214日に西安市で遂に発見されました。中国では考古学上の大発見として全国へ報道されています。

前々号の「漢時代~西安を舞台に中国の絶頂期」でも取り上げた“文帝”は中国歴代の皇帝の中でも優秀な皇帝でした。“文帝”は漢の始祖“刘邦”と側室の間にできた子息で真面目で優秀であったことから、漢王朝から皇帝着任を請われ、断り切れずしぶしぶ第五代皇帝を引き受けました。“文帝”は荒れた国土を回復するために、民の活力の回復が必要と考え、農業を奨励、租税を軽くし、貧困者への生活支援まで行いました。史記によると自らは倹約に取り組み、大きな陵墓を築かせず、金銀を一緒に葬らないように指示したと記録されています。その優れた政治手腕で国と民は豊かになり、中国の絶頂期を迎えました。中国人は大きな陵墓がある第六代皇帝“景帝”は知っていますが、陵墓が分からない“文帝”を知る人は少ないです。でも今回の発見で全ての中国人の知るところとなりました。

発見された陵墓は、一般に見られるピラミッド形状の盛り土がなく、平坦で一面の桃畑の中で見付かりました。上空から見てもここが陵墓であるとは全く分かりません。ではどのようにして発見されたのでしょうか。2002年米国のオークションで、6個の後漢時代の俑坑(ようこう=陶製の人形)が競売に掛けられ、中国政府は返還を求めて交渉を行い翌年に西安に戻りました。考古学者はこの俑坑の出土先を調べたところ、2006年に“江村”の墓から盗掘されたものであると特定しました。今から3年前の2017年、“江村”で発掘作業をしていた考古学者が、“文帝”の名が刻まれた陶片を遂に発見、大規模な発掘作業が開始されました。一面の桃畑には二つの盗掘跡の洞窟も確認され、非常に規模の大きい墓であることが判明しました。東西の墓道は250mに達し、墓室の周囲は副葬品を納める110個の副室が囲んでいます。陵墓は諸侯の墓の規模を越えており、“漢文帝覇陵”であると確定されました。

これまで文帝の陵墓は、“元”時代(AC12711368)の記録により“江村”の北2kmの山の“鳳凰嘴”が“文帝”の陵墓と認識され、“清”時代(AC 16441912)に建立された“文帝覇陵”の石碑が今も建っています。歴史的誤認が千年以上も続いていたことになります。“鳳凰嘴”を麓(ふもと)から見上げると、古墳のようなピラミッド形の山に見え誤認を招き易かったのです。考古学者は“鳳凰嘴”一帯に人工の埋蔵物がないか、人海戦術と探査機により二年に亘って詳細に調べたところ、自然に形成された只の山であると断定しました。“漢文帝覇陵”を発掘の結果、金銀錫などは見当たらず、埋葬物は金銀に模した陶器が副葬されており、また土を高く積み上げた陵墓でなく、史記に記載の通り自らが質素倹約に努めたことが証明されました。同時に皇太后の陵墓も発掘され、異なる異国情緒に満ちた副葬品が多数見付かり、既に東西文明が西安で融合、中国黄金期の華やかな時代であったことを映し出しています。

 

この歴史編では中国最初の王朝“夏”から始まり、今は“漢”時代を旅しています。過去が有って現代があり、私たちが生きているこの世界は、色々な歴史が積み重なって出来ています。壮大な歴史のほんの一部を生きているに過ぎません。“文帝”時代から更に遡る300年前に思想家“孔子”が誕生し、人々を導く数々の名言を残しました。また占いの「四柱推命」の基本となる「陰陽五行説」も確立され、日本文化の基礎になりました。悠久の歴史を持つ中国は、長大な時間と奥深い歴史的空間を持っています。今後この陵墓一帯が観光地として整備され、一般公開されるでしょう。

(写真左:中国中央電子台13chの報道2021.12.14、写真右:文帝覇陵の所在地)

漢時代~保定にある漢の陵墓

(BC206AC220)の歴代皇帝の陵墓は西安市に集中していますが、私が駐在した河北省保定市にも存在します。なぜ西安から遠く離れたこの田舎町に漢の陵墓があるのか不思議でした。この陵墓は、(満城県の漢の陵墓)と呼ばれ、保定市から西北20kmの霊山“にあり、保定市の観光名所となっています。市内から市バスが日に何本か運行、歴史好きの日本人がよく訪ねて来ます。1968年5月、人民解放軍が高射砲陣地を構築するために山肌を調査していたところ、山頂から30m下ったところに直径20cmの穴を見付けました。穴を広げて中に入ったところ、穴の中に多数の食器が並べられており、驚愕した兵士はすぐに北京の中央委員会へ報告し発掘作業が開始されました。

古代の戦国七雄(秦・斉・楚・燕・趙・魏・韓)の大国と趙と燕に挟まれ,ちょうど今の河北省に、“中山靖国”と言う小さな王国がありました。隣の定州市に都を置き、漢時代の第六代“景帝“の子息”刘(劉勝)が、この国の王として着任を命じられました。彼の兄は漢時代の第七代皇帝として有名な”武帝“です。劉勝は兄を助けずに、酒と女色を好む大層な遊び人だったようで、子どもは何と120人もうけたと言われています。この人の陵墓が満城漢墓と呼ばれています。このような放蕩息子でも手厚く葬られていたことは、漢の皇帝の権威と権力が如何に大きかったかを示すもので、後の「三国志」で登場する”刘(劉備)は「我こそは刘の末裔なり」と名乗りを上げています。約2800点もの副葬品が発見され、現在 石家庄市の河北省博物館で展示されています。副葬品として金銀器、工具や武器、さらに陶器や漆器などあらゆる種類の器物が納められていました。

その中でも世界を驚かせたのは、遺体に着せられていた「金縷玉衣」です。二千片以上の四角い“玉”(ぎょく;宝石のヒスイ)の板の四隅に小さな穴をあけ、金糸で綴り合わせて身体を包むようにした玉衣でした。一人の職人が作ると十年以上を費やすと言う贅沢極まる玉衣です。遺体を保存するために作られたのですが、2000年の歳月を経ていたので、遺体の殆どは残っていませんでした。この玉衣はかつて大阪市立美術館で展示されたこともあります。皇后の墓室からは、蝋燭(ろうそく)の台として使用された“長信宮燈”が発見されました。この燭台(しょくだい)は、女性が座って蝋燭を持つ形に作られ、その体内は空洞になっており、蝋燭の煤が右腕の中を通って体の下へ落ちる構造で、部屋の空気を汚さないように考えられていました。このような贅沢な副葬品は、この“武帝”の時代に最盛期を迎えていた漢時代と漢王朝の栄華を今に伝えています。

ここで当時の大阪の状況(二千年前)と比べてみましょう。大阪平野は海の水が引きはじめ、海が河内湖と言う淡水湖へ縮小しましたが、10月まで利用していました東成区民センターはまだ河内湖の中です。JR森ノ宮駅や玉造駅は河内湖の岸辺に位置し、20213月の発掘調査では土器・石器および木製の農具、竪穴式住居跡も見つかっています。この頃の中国は中央集権国家体制の高度な政治システムが完成していますが、日本は稲作が定着した頃、米作りで定住した所が幾つもの小さなムラになり、米と言う財を巡って土地や水の奪い合いでムラ同士が戦争ばかりしていました。集落は外部からの侵入を防ぐため、周りに環濠を巡らせていました。文字を持たず鉄の道具や青銅器もなく、土器や石器を使い、地面に穴掘った竪穴式住居に暮らしていました。金銀食器とか燭台などの精緻な工芸品は、まだ想像もできない時代です。この頃から大陸から先進技術を持った渡来人の移住が増加し、社会が急速に発展していきます。

(写真左:満城漢墓の入口、写真中:満城漢墓から眺めた満城県、写真右:長信宮燈紹介の現地看板)

漢時代~西安を舞台に中国絶頂期

西安の咸阳空港へ降り立ち、市内へ向かう高速道路を暫く走ると、左側に山のような二つの陵墓が目に飛び込んで来ます。麦畑に人工的なピラミッド形状、高くて大きな陵墓、地位の高い人物であると容易に想像が付きます。この陵墓が漢の第6代皇帝“景帝”“西陵”と皇后の”刘后“”阳陵“です。筆者が西安滞在中、建設中であった”景帝阳陵博物院もオープンし、陵墓からの出土品が展示されています。

前号で中国人の心のアイデンティティは“漢”にあると述べました。漢王朝の第5代“文帝”とその子息の“景帝”の時代が最も栄えた時代でした。秦から漢の時代に入っても、まだ国土は荒れた状態、秦末期の大戦争で多くの人民が死亡、農民は流民化または奴隷として連れ去られ、農地は荒れ果て飢饉が発生しました。文帝の家臣“晁chao2cuo4)が文帝へ上奏文を提出、勤苦如此,尚复水早之灾,急政暴赋敛朝令而暮改zhao1ling4xi1gai3農民の苦労は大変であるのに、その上 水害や干ばつに苦しめられ、加重な税を求められ、朝出された命令が夜には変更されるという状況です」。当時役人などによる農民への搾取が激しく、多くの農民がひっ迫し、流民化していくさまを危惧した家臣がこれを放っておいては大変だと文帝に訴えたのです。この文が成語の「朝礼暮改」の由来となっています。

文帝は荒れた国土を回復するために、民の活力の回復が必要と考え、農業を奨励、租税を軽くし、貧困者への生活支援まで行いました。また自らは倹約に取り組み、大きな陵墓を築かず、金銀を一緒に葬りませんでした。その後は子息の“景帝”が引き継ぎ、同じ政治姿勢で統治、倉庫には食糧が溢れ、国庫には銅銭が積み上げられました。このように漢王朝は民の生活を安定させる政治を行い、民は大変喜び国家と一体感、国家意識と責任感が持てた時代、漢族の政権による民族国家の団結が最も強い時代でした。

“景帝”の亡き後、即位した第七代“武帝”は、盛んになった匈奴の南下を防ぐために大規模戦争を起こしたり、西安に大きな水軍の訓練用として周囲63kmの人工の“混明池”を掘らせたり、“上林苑”と言う周囲150kmの世界の動物や草花を集めたとてつもない大庭園を造ったり、これまで蓄財してきた国庫が無くなってしまいました。このため武帝の後を引き継いだ“昭帝”は、国家財政を建て直すため、塩・鉄を国の専売制にしようとしました。しかし塩は生活する上で必需品であり、鉄は農機具を生産する上で必要不可欠な原材料でした。その政策の是非を官僚に討論をさせ、その記録が盐铁论(塩鉄論)と呼ばれる史料として残っています。その記録には狸”(qiong2shu3nie4li2)と言う成語が出てきます。意味は「窮鼠猫を噛む」(きゅうそねこをかむ)です。塩とか鉄の生活必需品を国が買い上げ、値段が急騰したところで売りに出し、政府は儲かりましたが人民の生活は苦しくなり溜まったものでありません。「死にもの狂いになった鼠(人民)は、勝ち目のない猫(政府)さえ噛むことがある」と反乱を危惧しました。“武帝”の陵墓は西安市の西北45kmにある“茂陵”で、高さは46.5mもあり漢の陵墓では最大です。この200年後、弥生時代中期、漢王朝の“光帝”が当時の「卑弥呼」に下賜する「漢倭奴国王」の金印を授かるため、貢ぎ物の奴隷160人を連れ中国へ初めて渡航した日本人がいました。

漢の都汉长安安城は西安市の西北方向に位置し、この9月1日に汉长安城未央公园”として、10年に及ぶ工事を経てやっと開園しました。この遺跡公園の面積は8.58kmと広大、西安市で最も大きな公園となりました。この地帯にはかつて多数の工場が存在、公園整備のために移転を余儀なくされ、筆者が訪問した会社も二度の移転を迫られたと嘆いていました。地図で陵墓の所在地をご紹介しますので、古都西安市を訪れる機会があれば、この陵墓と遺跡公園を訪ねて下さい。空港から高速道路を経由し、西安第二環路を西へ走ると右手に、遺跡公園の大きな五重の塔が見えて来ます。

 

(写真上左:左が西(百度MAP)、右が阳陵、写真上中:墓と汉长安城遺跡公園の所在地、写真上右:汉长安城遺跡公園内の五重の塔、写真下右:昆明池の船のモニュメント)

漢時代~民族統一と心のアイデンティティ

中国の知人が、遥か昔の「漢の時代は良かった!」と口にするのを聞き少々驚いたことがあります。知人にその理由を尋ねると漢時代は中国史上、最も繁栄し漢族の文化が隆盛を極めた時代であったと述べました。中世・近世と時代の変遷につれ、漢族の文化は廃れていき、現代が最低の状況になっていると知人は言います。一般に中国人は歴史に詳しいです。現代人の心のアイデンティティは漢時代とされ、人民が国家と一体感、国家意識と責任感を持てた時代と言われています。漢字・漢方薬・漢族・漢服・漢民族など中国を代表するものには全て漢の名が付いており、漢時代が心の拠り所かも知れません。

中国を統治した王朝遍歴の背景には、北方の異民族やモンゴル民族、満州族が影響しています。彼らの住む地方は、冬はとても寒く土地も乾燥しており、温暖な気候と肥沃な土地を求めて南下し、侵略を繰り返しました。この侵略を防ぐために、何千年も前から歴代の皇帝が万里の長城の建築に腐心しました。

中国と言う国家の歴史は漢民族または外来民族(侵略者)による支配の期間で比較すると、実のところ外来民族による支配の期間が長いのです。“”時代は漢民族が築いた王朝、次の“北魏・隋・唐”は外来民族が築いた王朝、中世の“遼・元”はモンゴル民族が築いた王朝、続けて“金・清”は満州族が築いた王朝、近世は欧米列強や日本による中国への侵略など、漢時代以降は外来民族による征服が続きました。漢民族自身が樹立した王朝は少なく、殆どが人口の6%に満たない外来民族、言い換えれば少数派の侵略者による王朝が長く続きました。日本に馴染みが深い“隋”“唐”でさえ、外来民族の“鮮卑系”が始まりです。

映画で男子が額の上を剃って、髪を三つ編みした发辫(べんぱつ)と言う一風変わった髪型を見た記憶があると思いますが、満州族が漢族に強制した風俗習慣の一つです。中国の民族衣装と思われている“旗袍”(チャイナドレス)も満州族の衣装です。今では“旗袍”を着用する人はウェイトレスぐらいしか居ません。このように満州族は漢文化と同化せずに独自性を押し通しました。滅亡後の1924年に、中央政府は外来民族による征服を排除するために、 “三民主(三民主義)を中国憲法に打ち立てました。三民主義とは、漢民族は一部の民族に支配されず、皇帝ではなく人民が国を治め、富める者の国でなく貧しい者も豊かさを得られる国を築いていこうとし、目的は満州族による統治を排除することでした。この経緯を中国人なら誰でも知っています。

その後2012年に習近平国家主席が“中国的梦”(民族の偉大なる復興)をスローガンとして提唱、国家の富強・民族の興隆・人民の幸福への展望を示し、漢時代を心のアイデンティティとして民族の精神的統合を強めています。さらに同氏は20218月の中央政府会議で、「漢文化が幹であり、各民族の文化は枝や葉だ。幹が丈夫なら枝や葉も生い茂る」と述べ、漢民族の概念が各民族のアイデンティティに優先すると述べ、これが現在の少数民族への統制強化を暗に示しています。

次に個人対個人の人間関係について述べると強固とされる人間関係は「血縁」と「地縁」です。特に血縁は非常に強く、企業の主要なポストを家族・親戚で固めた同族企業が大変多いです。中国では血が繋がった家族や親族を中心にまとまる傾向が強く、人間関係の核に血縁の結び付きが存在します。親族の一人が成功すれば他の親族もその恩恵を享受できます。しかし能力の低い人が主要ポストを占める弊害も出てきます。次に地縁は同郷と近隣の二種があり、中国では同郷出身が地縁と意識されています。知らない人が会って会話する時に、“你是哪里人?(出身はどこですか)はよく交わされる挨拶にもなっています。日本の県人会より、遥かに強い同郷ネットワークで相互扶助組織です。近隣地縁としては都市で“社区”というコミュ二ティが至る所に存在し、そこには「居民委員会」があって政府の出先機関のような役割を持ち、強い団結力を発揮しています。このように血縁・地縁関係を重要視するが故に、見ず知らずの他人には無関心の傾向を感じることもあります。

中国は歴史上、為政者がコロコロ変わり、その都度方針も変わり、現代も政府を当てにしていません。“上有政策,下有(上に政策あれば下に対策あり)と揶揄する言葉さえあります。企業も人をそれほど大切にせず、社会には不平等が存在すると言う状況では、自分を守る基本手段として、企業や政府のような人為的な組織より、血や地の繋がりに裏付けられた自然的な血縁・地縁関係を日本では考えられないほど重視、反して会社や政府と個人との関係、個人の組織への帰属意識は希薄になる傾向が生じます。

 

(写真左:保定軍校記念館、写真右:同館中庭で子供の撮影会)

甲骨文字一字解読で10万元進呈

コロナ緊急事態宣言の中、中国語の自己学習は進んでいるでしょうか。中国語学習者にとって、漢字の成り立ちを知っておけば汉语の理解が深まります。今回は漢字の起源である“甲骨文字”を紹介しましょう。現存する最古の文字である甲骨文字は、3000年前に編み出されましたが、発見されてからまだ120年と日が浅いです。これまで約5千文字が見付かっており、しかし解明されていない3千文字残っています。

2016年、中国文字博物館が“破译单个甲骨文将10万元”(一字解読できれば10万元(167万円)進呈)のキャンペーンを実施しました。2年後の20186月に、古文字学者の蒋さん(jiang42才、山東省曲阜市)が見事賞金を獲得しました。蒋さんは 漢字は形を表現した象形文字であるが、実際に使う時にはまた違った用法・意味で用いている文字もあると言います。例えば、“且”qie3)は古代も現代も書き方は同じで意味は、「しかも」です。でも“且”は祖父・祖先の祖を形成し、創始者の意味も持つなど字形となる意味もあると述べています。蒋さんが解読した甲骨文字は、写真上左の字(以下、「蒋さん解明字」と言う)です。この甲骨文字を見て多くの人は、木の枝または飛んでいる鳥、つくしん坊を連想するでしょう。蒋さんの研究では、「間抜け」や「愚か」が最も適切な意味であると述べています。この蒋さん解明字は、象形文字としては「屯」tun2)(集める・蓄える)であることが、既に分かっています。字形を見て分かるように“屯”は髪を束ねる象形で「集まる」の意味を持ち、「駐屯地」の語句に用いられています。蒋さんの説では、この甲骨文字は「屯」以外には、“蠢”(chun3)(うごめく)の異体文字の使い方もあると述べています。“蠢”はうごめく以外に「間抜け」「愚か」の意味を持ちます。字形は「屯」ですが、“蠢”も同源語となれば全く別の意味を持っているのです。

“商”時代(3300年前)、動乱が続いていた時に地方を征伐して平定しなければなりませんでした。この時、安定を乱すそれらの国の呼び方は“蠢夷方”chun3yi2fang1)「間抜けな野蛮人」と呼びました。この蒋さん解明字の象形文字を“蠢”の「間抜け」と解読することで、“西周”時代(2900年前)に青銅器に鋳刻された“金文”(銘文)の解読が一気に進みました。他の古文書をこの意味で読むと完全に文意が合致しました。蒋さんの解読方法は事実の一連の証明を繋げていき、解読が出来ていなかった古文の問題も解明も進み、道理にかなった根拠があると審査員は絶賛しました。蒋さんは私が凄いからでなく、一瞬の閃きが壁を突き破ったのですと言います。蒋さんは多くの時間を費やし、関連資料を研究しましたが解けませんでした。ある資料を完成させた後、幾つかの事実に遭遇し、「間抜け」と読み解くことを突然閃き、他の関連する事実にも対応させることができ、この字の意味が「屯」だけでないことを確認しました。その後、僅か1週間で論文を書き上げました。

さて、写真上中の甲骨文字は、監視や監査の「監」の甲骨文字です。監は「見る」「調べる」「見張る」の意味を持ち、甲骨文字では人が皿を見る象形で表します。では写真上右の甲骨文字は、どう言う意味を持つでしょう。答えは歴史編の35“甲骨文字”を参照下さい。

 

現在、甲骨文字の3000文字がまだ未解読です。甲骨文字は既知情報が少なく、まだ隠れた意味が多いからです。甲骨文字の翻訳に力を注ぐ学者も多く、簡単な字は解読が進みましたが、複雑な字の解読が進まず古代文の理解がなかなか進展しません。この状況を打開するために、今回のように多額の懸賞金を掛け、解読を進める案を採用したのです。写真下段はまだ未解読の甲骨文字の一部を示します。3000字の未解読字を全部解読できたら50億円を獲得できます。

 

(写真上左:束ねた髪を意味する甲骨文字()、写真上中:皿を見る甲骨文字、写真上右:何の甲骨文字?、写真下:未解読の甲骨文字の一部)

2000年前~漢字に畏怖の念を抱いた弥生人

中国の“魏国”が日本へ金印を贈った2000年前の頃、稲作と同時に漢字も伝わりました。しかし発掘された銅剣や銅鏡に漢字が見られるのは、その400年後の1600年前頃です。漢字が伝来し400年経ってから、弥生人はやっと漢字を使い始めました。なぜ400年もの空白期間が存在するのでしょう。2016年に福岡県糸島市で2000年前の漢字が記載された硯(すずり)の一部が発掘されました。当時の貿易で駐在した“漢”の使節員が残したものであろうと考えられています。この発掘から当時の弥生人は漢字を目の当たりにし、漢字の存在について認識していたと考えられますが普及しませんでした。

言語学者の研究によると漢字の普及が遅れた要因として、「言霊」(ことだま)が、普及を阻む要因ではなかったかと述べています。私たちは普段、不吉な言葉は縁起が悪いと口にしません。「死」、「癌」や「離婚」とかいう言葉を口にすると本当に「死」、「癌」や「離婚」という事実が起こることを気にします。この「言霊信仰」が現代でも残っている例として、結婚式で「切れる」「別れる」「離れる」などは禁句としています。神社でお祓いを受ける時、神主さんが読み上げてくれる「祝詞」は成就させたい事柄を言葉で述べています。特に古代では言葉には「言霊」が宿り、発した言葉通りの結果をもたらす魔力があると恐れられていました。明治時代、写真機が伝来した頃、写真を撮って貰うと魂も取られると言って忌み嫌いました。弥生人は異国から伝来した奇妙な記号の文字は、まるで「言霊」を封じこめる呪術のように見えて警戒しました。記号のような文字で自分が言ったことの痕跡を残されたら、自分の身に不吉なことが起きると案じ、敢えて漢字を遠ざけました。このように古代の迷信が漢字の普及を阻む要因になったようです。

弥生時代に漢字が伝わる以前は、口語の「やまと言葉」でコミュニケーションをしていました。一例を上げると「ありがとう」は「有り難い」となり、「有ることが難しいことが存在する」感謝の気持ちを表します。「おめでとう」は「芽が出た」状況を示し「成長して喜ばしいこと」を表します。今でも“吴音”(中国江南地方(揚州市)の方言)と「やまと言葉」の発音が同じものが多数あり、この地域から伝わって来たようですが伝来した時期は定かでありません。「やまと言葉」は、言い難いことを柔らかく表現できますので、微妙な気持ちを伝えるのに便利な言葉です。汉语(中国語)ではなかなか気持ちの微妙な表現は難しいです。その「やまと言葉」に漢字を導入したことでその語源が分からなくなった言葉が多数あります。例えば「おもい」と言う言葉を辞書で引くと「思い」「重い」の両方に用いられており、本来の「おも」と言う字の語源が分からなくなりました。

小学館大辞典で「こと」を調べると「言」「事」は同語源であると記載されています。同語源とは共通の起源を持つ単語の意味です。古代の「こと」という言葉は、「発生する事象や出来事」の意味を持っていました。漢字が伝来した頃、やまと言葉の「こと」という単語に「言」「事」の二文字を当てました。「言」は口に出して言うことを意味し、「事」は世の中に起きる出来事を意味しますが、両者の起源は同じであると言っています。つまり「言う事は実際に起きる」との信仰から同じ字源となっているのです。この事実は古代において言葉には霊力があるという「言霊信仰」の存在を今に伝えている一例です。観光地の土産物屋で前向きな良い言葉を書いた色紙を売っていますが、前向きな良い言葉を発すると言霊の力で人生が好転すると伝えられています。逆に悪い言葉(愚痴)を発すると人生が暗転しますので気を付けましょう。

下の写真は200911月に開館した“中国文字博物(河南省安陽市)です。展示されている甲骨文字は漢の時代を更に遡ること四千年前に使用されていた文字で何と五千文字が発見されています。同館ホームページの360度パノラマツアーで館内を参観できます。

 

(写真左:河南省の中国文字博物館、写真右:約3000年前の甲骨文字の展示物)

漢時代~必死に習字を学習した時代

下段左の写真は2千年前に役人が書いた手紙です。発掘された当時、綺麗に整然と書かれた文字に驚嘆の声が上がりました。漢の時代、紙が発明される以前は、写真のように竹の短冊に墨で書き、この短冊を汉简(竹簡=ちくかん)と呼びます。

秦の時代、漢字が地域ごとに異なれば意志疎通ができず、秦の始皇帝は“篆(篆書=てんしょ)を文字の一書体として定めました。でも篆書は今の印鑑に使用されている複雑な書体、現場で事務処理する役人にとっては使い難いです。そこで漢時代の役人が篆書を簡略化し直線を主体とした“隶(隷書=れいしょ)考案しました。漢時代は篆書から隷書に変化し隷書が成熟した時期、1907年に甘粛省敦煌市(とんこう)で発掘された漢時代の竹簡に書かれた文字は、冒頭紹介したように高い書道の芸術性を持っており書道界を驚かせました。その後現在 普及している楷書・行書・草書へ発展していきます。現代、隷書は印鑑以外に新聞の題字、1万円札券面、パスポート表紙に用いられています。

後世の書道家を感心させたこの竹簡は、著名な書道家によって書かれたものではなく、全て一般人が書いたものです。辺境の将兵が警備活動や生活状況の報告書、中央と地方の間で交わされる役人の文書、官吏の任免文書、兵器及び馬の登記簿、買い物明細書、貸付契約書などが残っています。人によって使う漢字や書体が異なれば読み難く、コミュニケーション手段として使えません。当時の朝廷の政令によると、九千字を読み書きができる人を官史に採用、8種類の書体で試験し成績が良い者は、特に文章を書くことを任務とする官職に任命しました。

庶民においても共通の字を用いず字が上手く書けなければ罰を受けました。この時代は庶民も必死に習字を勉強した時代です。取り分け官史と辺境守備の将兵に対しては、漢字が間違っていれば罰し、正確に漢字を書くように厳しく命じました。好き勝手な字を使っていては、法で統治することができず、このように厳しい措置を取りました。しかし秦の時代は短命に終わり、しっかりと定着させることができませんでした。漢の時代に入り、まだ混乱している社会を法で平定する為、官史・庶民に対して標準の字を書くように強制、この字を書く能力を高める政策は、他の改革に比べ小さいかも知れませんが、後世へ標準漢字を伝承した功績は大きいです。

漢時代は文字を統一・完成させた時代であり、その時代の文字を象徴して「漢の字」と呼び、すなわち私たちが日常使っている(漢字)です。今では漢字は生活にとっては無くてはならないコミュニケーションの必需品となりました。また西洋人は漢字がプリントされたTシャツにファッションセンスを見出すように、世界の言語の中で最も魅力的・芸術的な文字となりました。

 

(写真上:二千年前の整然と書かれた竹簡、写真中:秦時代の篆書、写真下:漢時代の隷書)

弥生時代~邪馬台国・卑弥呼は奇異な当て字

久々に歴史編に戻り中国古代のお話しをしましょう。まだ漢の時代を旅しており、日本から「遣唐使」の友人が来るまで700年もあります。この頃の日本は弥生時代、中国とは属国関係にあり、中国史書には日本の色んな国名・地名・人物名が出て来ます。代表的な名前に「倭奴国(わのなこく)」、「邪馬台国(やまたいこく)」、「卑弥呼(ひみこ)」などがあり、学校の歴史でも学んだと思います。でも実に変な漢字を使用しています。「」は背が低い部族、「邪馬台国」のは“よこしま”で不道徳の意味、「卑弥呼」のは“いやしい”身分で良くない意味を持っています。以前「匈奴(きょうど)」の意味は“死者を抱える奴ら”の意味であることを紹介しました。当時、日本は文字が無かったので、中国が名付けた名前をストレートに受け入れましたが、なぜこんな変な名前を付けたのでしょう。

この時代の中国は世界の中心と言う中華思想の考え方があり、古代中国の文明度は他国を圧倒していました。文明圏以外の国は後進国の匈奴と同じように、野蛮を示す漢字を当てられ下劣な存在と位置付けられ、他の漢字でも“南蛮人”とは南の野蛮な人たち、他に“東夷北狄”など他民族を卑しめる語が使用されました。中世の京都の人でも、東国の武士を東夷(あずまえびす)と呼び野蛮人と見做しました。

ところで日本では外来語をカタカナで表記しますが、中国では同音意義語を当て字に用います。例えば「ケンタッキー」は“肯德基”ken3deji1)、”ゴルフ“は(gao1er3fu1)などです。現代はピンイン読みを採用していますが、古代の中国は中古音と呼ばれる読み方でした。漢和大辞典(学研)には古代の中古音読みが併記されており、例えば卑弥呼を中古音読みするとpie3mie3ho、カタカナで読むとピーミーコー、即ちヒミコです。弥生時代の日本はまだ文字を持たず、中国で名付けた漢字「卑弥呼」をそのまま素直に受け入れました。なお史書によれば卑弥呼は呪い師と記されており、一般に古代の指導者は呪いで人々を導いたようです。この事からヒミコのミコは、巫女(みこ)の語源に繋がったと言う説もあります。ではヒはどんな意味が有ったのでしょうか。一説によると卑弥呼は古事記に出て来る「天照大御神」ではないかと考える学者がいます。年代的にも一致するらしく、ヒミコのヒは日となり太陽を表し、日巫女(ひみこ)つまり太陽に仕える巫女という説が有力です。

一方“倭”を中古音読みすれば、ur3、カタカナ読みすると「ワ」、奴は「ナ」です。倭奴国王は即ち「ワのナ国王」です。一方、初期の邪馬台の漢字は“邪馬臺”となり、古代ではヤマトと読んでいました。このように古代日本で漢字を導入する以前、「やまと言葉」としてヒミコ、ヤマト、ワナ国と呼ばれていた発音を、「倭・邪・卑」などの変な漢字を当て字として用いました。

ワナ国は福岡地方にあった佐賀県吉野ケ里地域を指すようです。時を経て日本人は倭が良くない意味を持っていることが分かり、当て字を漢字の「和」へ変更し、さらに「大」を加えました。この「大」は立派の意味を持つ修飾語です。例えば中国では“大保定市”(河北省保定市)とか小さな都市の名前に大を付けて権威付けする呼び方があります。このようにして「ヤマト」の漢字を「大きな和」と書く「大和」へ変更し、既に用いていた倭も同じく「ヤマト」と呼ぶようにしました。なぜ卑弥呼の文字も修正しなかったのでしょう。

他国を低劣な存在として位置付けるため、品の悪い字を当て字として用いたようです。その他にも日本神話が誕生した背景など、弥生時代には良く分かっていないものが沢山あります。文字がなく記録が残っておらず、解明が進んでいません。卑弥呼に興味がある方は、『日本史最初の女王「卑弥呼」とは何者なのか?』URLを訪問下さい。詳しく記載されています。

写真は筆者が3年間暮らした西安市、漢の長安城壁を復元した一部です。周りには漢時代の古墳も点在しますが、当時の建物は残っておらず麦畑となり、漢は遠い過去の出来事となりました。

 

(写真左:長安の都の変遷、写真右:地図中の黄矢印から西北地方を眺める)

漢~敗軍の将は兵を語らず

まだ紀元前204年頃、の時代から周・秦を経ての時代を旅しています。成語が多く誕生した時代でもあります。2000年の歳月を経た今でも使用されている成語に「敗軍の将は兵を語らず」があります。中国語では“败军之将,不可言勇bai1jun1zhi1jiang3 bu4ke3yan2yng3と言います。原文では「敗軍の将は勇を語らず」となり、なぜ“兵”となったのかは分かりません。

先日、自民党総裁選が終わりました。日本の政治家が選挙に敗れた時、「敗軍の将は兵を語らず」を良く使います。総裁選に関わる朝日新聞の記事を読み、ある元首相が総裁予備選に負けた時、記者会見で「敗軍の将、兵を語らずだ!」続けて、「天の声にも変な声があるもんだ!」と言う名文句を残したことを思い出しました。

漢の初代皇帝の“劉邦”は、“韓信”と言う知将を抱えていました。韓信は有名な「背水の陣」を敷いて兵を振るい立たせ“趙”の大軍を破って、さらに進撃し、趙の部隊を追い詰めるため、山あいの挟道を進むことを選びました。これを知った趙の戦略家の“李左車”は漢の部隊を挟撃することを趙の宰相、“陳余”に進言します。しかし、進言は聞き入れられず、韓信は予定どおり挟道を通過して勝利を収めることができました。もし、進言を聞き入れていれば、漢の部隊を一気に壊滅できていたかも知れません。敵の宰相“陳余”は捕まえられ、殺されましたが、韓信は李左車の才能を高く評価していたので、李左車を召し取り教えを請いました。「私は北方の“燕”と東方の“斉”を討とうと思うが、どうすれば良いか?」と聞いたところ、李左車は“败军之将,不可以言勇,国之大夫,亡不可以(敗軍の将は勇を語るべからず、亡国の大夫は存立を図るべからず)敗軍の将軍は「武勇について語る資格はなく、滅んだ国の家老は国の存立を図るべきではない」と言い戦術の提案を断りました。李左車のこの言葉が“败军之将,不可言勇敗軍の将は兵を語らず)の由来になっています。失敗した時、謙虚になり多くを語らず、二度と同じ過ちを繰り返さないことが大切であると諭しています。アメリカ大統領選でも同じことが言えるのでしょうか。

下記の写真は江蘇省秦州市内の“城桃园”の“秦州老街”のレトロな街並みの様子です。秦州市はやや交通がやや不便な関係から、時間がゆっくり流れています。秦州に伝わる朝食文化の“朝茶”を食べて、普段慌ただしい生活から解放され、同僚とおしゃべりしながら、ゆったりしたモーニング時間を過ごすのはとても良いです。

 

(写真左;江蘇省秦州市望海楼、写真中;秦州老街、写真右:秦州式朝茶)

戦争遺跡~河北省定州市の地下道

前号で紹介した「柳条湖事件」の6年後の1937年、対峙していた日本軍と中国軍の間で北京郊外「盧溝橋事件」での戦闘をきっかけにとうとう7年に及ぶ戦争が始まりました。

北京から南西へ200kmの河北省定州市に当時の戦争遺跡“冉庄地下道戦遺跡”を訪問しました。中国人民は日本軍とまともに衝突すれば勝てないことが分かっていましたので、地下道を掘ってゲリラ戦を展開しました。村ごとに地下道を掘り、村と村とが地下道で結ばれています。周りが平坦ですので身を隠すところが無く、日本軍が来たら人々は地下道に逃げ込み、日本軍が去ったら地下道から出て来ていつも通りの生活をします。地下道にはいくつもの洞が掘られていて、宿泊用、家畜用、物置など用途別に使われたようです。また敵をごまかすために迷道が掘られており、方向感覚をなくして同じ所をぐるぐる回るような構造になっています。

私が訪れた地下道は、実戦で使うことがなかったので良く保存されていました。隣の北坦村では、抗日の根拠地であったため、1942527日に日本軍が総攻撃を掛けてきました。最初は善戦しましたが、武器がなくなり、人民は地下道へ逃げ込みました。地下道へ逃げた事に気付いた日本軍が外から毒ガスを投げ込み、1000人以上の方が亡くなりました。写真で見るように地下道の入口は何の変哲もなく、なかなか見付けることができません。入ってみると地下道は大人一人が立って歩けるぐらいの高さと幅があり、くねくねと曲がる迷路となっており、出るに出れなくなります。右往左往の末、やっとのことで地上に脱出しましたが、直線距離としてはほんの少しでした。外に出ると2本のアカシアの木があり、時を告げる鐘が吊ってありました。このアカシアの木は、何と樹齢1600年らしいですが、地下道を掘ったことで根を切断、枯れてしまい今では複製品となっています。村人の話しでは、かつて償いのためここを毎年お参りに来る元日本兵が居たとのことで、それを聞いた時少し気持ちが和らぎました。

前号から二回にわたり、太平洋戦争で中国が受けた苦難を、中国側からの視点で述べてきました。戦争遺跡を囲む壁や政府機関の建物には、「牢记历史忽忘国耻前事不忘后事之(歴史を心に刻み、国の恥として、過去の事は将来の師、忘れてはいけません)と銘記されています。中国の学校で反日教育が行われていると日本のメディアは報道しますが、教育の目的は若干異なります。中国自らがなぜこのような屈辱的な状況に陥ったのか、なぜ侵略を受ける事態になったのか、なぜ中国はなぜ立ち遅れることになったのか、過去の苦難を忘れ去ったら苦難は再び訪れる。決して忘れてはならないと中国人民一人ひとりに警鐘をならしています。

(写真上左:枯れたアカシアの木(複製)、上右:街並み、下左:トンネルの入り口、

下右:トンネルの内部)

戦争遺跡~瀋陽九一八歴史博物館

中国東北地方の瀋陽市戦争博物館へ行ってきました。瀋陽市へは何度か足を運んでいるのですが、瀋陽に住む知り合いが気を遣ったのか、戦争博物館については一言も教えてくれませんでした。今回は同じ瀋陽に住む日本人から情報提供を受け訪問しました。南京市の戦争博物館と同じようにこの「九・一八博物館」も有名です。九・一八とは1931918日を意味し、「満州事変」の発端となった「柳条湖事件」が起こった日です。この博物館で知り得た太平洋戦争へ突入までの経緯を紹介します。

 

『1931年当時、関東軍は南満州鉄道を爆破、犯人は中国軍と偽り、これを口実にして中国へ侵略攻撃を開始しました。博物館はその爆破事件のあった場所に建てられており、往時の写真を見ると何の建物もない郊外ですが、今ではアパートが立ち並ぶ市街地に変わっています。「柳条湖事件」とは太平洋戦争の発端となった重要な事案であり、博物館では背景・経緯などを詳しく紹介していました。

当時の関東軍は南満州鉄道、並びに遼東半島(大連・旅順)の警備についていました。一人の軍部幹部が覇権争いしているアメリカに勝つためには、満州が必要との危険な考えを持つに至り、そこで918日の夜、反日リーダーの「張作霖」を列車ごと爆破し、中国に責任をなすりつけ満州全土の制圧を進めました。偶発的な事件ではなく、満州の農作状況を事前に調査するなどしており、計画的に練られたものでした。本邦の日本政府は大反対しましたが、その後五・一五事件や二・二六事件を起こすなど軍部が暴走、誰も止めることができなくなりました。その後、満州国を設立、国際連盟を脱退、日本政府は満州国への移民事業を始めました。当時の日本はアメリカから石油の輸入禁止を受け、ハワイを奇襲攻撃、短期決戦へ持ち込もうとしましたが、太平洋戦争へ突入していくことになります』

 

太平洋戦争が起った経緯を知り、無謀な戦争を起こし、両国で多くの犠牲者を出したことについて悲しみの憤りがこみ上げました。この歴史博物館は史実をパネルや写真で展示し、他の博物館で見られるような凄惨な展示物はなく、純粋に史実を展示しています。当日の見学者は他省から観光で来た20~40代の若い人が多く、みんなが静かに見入っています。日本人は私一人でした。

この博物館でしばしば目に付いたのは、“忽忘国耻”(国の恥を忘れるな)と言うスローガンです。巷で言われている反日宣伝の施設ではなく、中国自らがなぜこのような屈辱的な事態に陥ったのか自問自答し、決して忘れてはならないと自らに戒める施設です。「なぜ侵略を受ける事態になったのか?」「なぜ中国人民は立ち遅れることになったのか?」「過去の苦難を忘れ去ったら苦難は再び訪れる。自ら努力せよ!」「今から努力せよ!」「中国の振興については一人ひとりに責任がある」と来館者に訴えています。中国テレビで毎日流される国歌も同じような含意を持ち、常に警鐘を鳴らしています。

1997年に橋本龍太郎元首相が同館を訪問、「以和為貴」を揮毫しました。館内順路の最後の展示部分は、日中友好の歴史を紹介しています。日中は不幸な過去を経験しているが、今は友人として未来の道は明るいと結んでいます。百聞は一見に如かず。海外から別の視点で日本を見ることは、貴重な勉強になります。日本にはこのよう戦争博物館はなく、機会があれば是非一度立ち寄り下さい。

(写真上左:橋本元首相が揮毫している写真、右上:博物館外観、右中::塀の向うが爆破地点、下左:満州国の溥儀皇帝、下右:忽忘国耻と書かれた釣鐘)

漢倭奴国印の意味

625日の朝日新聞で9月から、福岡市・志賀島で出土した国宝金印(福岡市博物館所蔵)の長野県立歴史館(千曲市)での展示について報道がありました。この人気の至宝に県内外から多くの来館が予想され、「人気過ぎて展示断念、コロナ感染防止が難しく中止」と書かれていました。今から230年前の江戸時代、漢の国王から送られた金印が福岡市の田んぼから発見されました。でもこの印面に彫られている「漢倭奴国」(かんのわのなのくに)の由来まで知っている人は少ないと思います。

“漢倭奴国”の“奴”は、以前 “匈奴”(きょうど)にも使用されていることを紹介しました。“この“奴”は“部族”の意味合いで少し見下げた意味を持ちます。さて、“倭”は、中国古代の字源では「背が低い」と言う意味を持っており“漢倭奴国王”は「漢の背の低い部族の国王」となります。当時は中国が世界の中心である中華思想の考えがあり、今では首を捻るような名を付けました。金印には、先頭に“漢”が付けられており、日本は従属国の関係であったようです。現代は米国と同盟国ですが、古代は中国でした。当時の“漢”の勢力は強大で周辺国へ金・銀・銅の印を贈っています。中国の研究によると、当時の日本は“漢王朝”に属することで自己の権威と王位が欲しかったとされています。もう一つ金印を送ったと記録があり、これが“卑弥呼”に送ったものと言われており、発見されれば、邪馬台国が何処に有ったかという論争に終止符を打つ世紀の大発見になります。 “卑弥呼”と言う女帝が存在したことも、中国歴史書の“魏志倭人伝”(ぎしわじんでん)に記録されています。1956年に山西省と雲南省の漢代の古墳から形・大きさ・字体の同じ金印が出土し、漢が贈った金印であることが証明されました。この福岡の田んぼで発見された金印は、昭和6年に国宝に指定され、福岡市博物館に保存されています。

 

紀元57年の“後漢書東夷伝”によれば、倭の奴国が毎年貢ぎ物をささげて挨拶に訪れ、“後漢”の最初の皇帝“光武帝”は金印を送ったとされており、どうも紀元前後(弥生時代中期)から日本人が中国へ渡来していたようです。この時の貢ぎ物とは奴隷160人を指し、この奴隷を引率したのは、「師升」(すいしょう)と言う日本人で、中国へ渡航した初めての日本人とされています。当時の日本は産業が未発達で他国に自慢して贈るような品物がなく、農奴として貴重な奴隷を贈ったのです。今の時代からすると何と酷いことを思いますが、日本にも奴隷制度は存在しました。語学を勉強する私たちは、コミュニケーションはどう取ったのかなと素朴な疑問が沸きます。

(写真左:金印、写真右;印面)

参考文献:朝日新聞デジタル 6/25
参考文献:朝日新聞デジタル 6/25

”漢”の名の由来

歴史編ではまだ「漢」の時代を旅しています。みなさんが中国語のテキストで、毛沢東主席が残した“不到非好 (万里の長城に来ないなら立派な男でありません)”の語録を耳にした人も多いと思います。

この語録では“”(漢)を男の意味として使用しています。漢を男の意味として使っている言葉は他にもあります。「正義漢」、「無頼漢」、「熱血漢」、「門外漢」、「好漢」は良い男、立派な男の意味のプラスイメージで使用されています。「悪漢」、「痴漢」、「好色漢」はマイナスイメージの悪い使い方、「痴漢」はやはり男をイメージします。ではなぜ、漢を男としての意味で用いるようになったのでしょうか。

以前、当レポートで「左遷」の由来を紹介しました。”楚“の国王は、先に”咸陽“へ侵入した者に対し、領土を与えると約束していました”劉邦“が先に”咸陽“を制圧し、争っていた”項羽“は、俺より身分の低い者に先を越された腹いせに、”劉邦“を辺境の”漢中(西安市の南西)“へ追いやってしまいました(左遷の語源)。その後、劉邦は項羽を破って漢の初代皇帝となるのですが、劉邦は国号を漢と名付けました。漢と言う字は象形文字から成り立っており、さんずい編は川を表し、”“菫”は「男性が立っている姿」を表わす象形文字です。即ち「川の傍に立っている男性」を表します。

これが何を意味するか分かった方は発想力が豊かです。これは「七夕」伝説の「天の川」と「彦星」を指していると言われています。七夕伝説は中国が発祥の地、この伝説が生まれたのもこの頃ですからそうかも分かりません(下記の漢の語源を見て下さい)。辞書で”天“を引くと「天の川」と出て来ます。”天“を象形読みすれば「天の川の傍に立つ男」となります。もうお分かりだと思いますが、漢の語源には男が表現されており、漢を辞書で引くと男の意味が確かにあります。

 

“劉邦”が左遷された地の”漢中“には”漢水“と言う川が流れ、長江の最も長い支流の一つです。中国語では“と言いますが、この河が天の川と同じ方向を向き、転じてこの河を指すようになりました。この河の名前”漢水“の漢、地名の”漢中“の漢と言う文字を用い、出発点を忘れずに誇りを持つことを国号に込められていると表向きにはそう考えられています。でも劉邦が漢の背景に込めた心を深読みしてみると、劉邦は名門出身でない成り上がり者、農民出身で地縁組織的な基盤を持っていないと共に、血統コンプレックスを持っていました。劉邦は国号に漢を付けて、自分自身が立派で偉大な男であると暗に天と民に知らしめたかったのだと推察されます。この説を中国の人たちに聞いてみると、的を射ていると評価していましたので恐らくその通りでしょう。2000年が経過し、”漢“の字は漢民族漢字漢文漢方薬など中国と中華民族を表し、中国に取っては重要な文字となりました。男の意味も持っているので、派生的に男気を表した言葉が生まれました。(写真上:漢の語源、写真下左:漢水の位置、写真下右:漢水河)

日本の中世~玉造中国語教室周辺

 私たちが学んでいる玉造中国語教室(以下教室)の周辺には遺跡がたくさん残っており、日本へ帰国時に歴史を訪ね、散策してきました。

 

JR玉造駅から私たちが飲み会で利用する「や台や」へ続く通りは、真田幸村のキャラクターを飾った飲食店が並び、事情を知らない人は何だろう?と思います。この通りは、「幸村ロード」と名付けられ、真田幸村を祀る「三光神社」へ参拝するルートとなっています(写真)。「幸村ロード」を真っ直ぐ進み、「や台や」前を左に曲がり、玉造交番の交差点の向こう側に「三光神社」があります。この三光神社と隣の真田山小学校の側壁は高く切り立っており、かつて崖であったことが分かります。ここは出城「真田丸」の東側の外郭(外囲い)の部分です。真田丸の本体は大阪明星学園内にあり、規模としては、大阪城の内堀に相当するぐらいの大きな要塞であったようです(写真)

 

前号で大阪城南側の桜門両側の堀は、地盤が硬く掘れなかったので空堀になったと書きました(写真)。ここが難攻不落の大阪城の弱点となり、大阪冬の陣、夏の陣でも南側から攻められました。徳川時代に入り、家康による再造営では土を7m以上盛り上げ、空堀の石垣を今の高さに確保しました。戦略的に弱い大阪城の南側を防御するため、城外の出城となる要塞が、この「真田丸」です。NHK番組ブラタモリでも紹介されましたので、記憶されている方も多いと思います。

 

因みに豊臣時代の大阪城は今の5倍の規模でした。地下鉄玉造駅の南側は、古地図で見るとやや深い自然の谷が在りました。この一帯は谷を利用し、空堀を造ったので、今でも町名が「空堀町」となっています。この空堀の防御は強靭で、冬の陣の際、徳川軍が空堀を突破することが出来なかったようです。今でも空堀町11丁目の中央部が陥没しており、その空堀の痕跡を見ることができます(写真)

 

教室は、9千~28千年前に隆起した上町台地の東側にあって、弥生時代後期にはまだ河内湖の中、近くでシジミが取れました。JR森ノ宮駅近くの大阪ピッコロシアター地下には、縄文時代に生活した遺跡が保存されています。古墳時代に入り「難波の宮」造営時には、教室周辺の谷も埋められ畑地となり、瓜(うり)が栽培されていたようです。室町時代には、玉造から四天王寺にかけて村ができて農耕が盛んになりました。豊臣時代になると状況は一変、大阪城の西側一帯(本町)は市街化の大規模開発が行われ、運河や橋もたくさん建造され、街並みが大きく変わりました。秀吉が大阪を大改革したので“太閤さん”と人気のある由縁です。教室の近くの上町台地の崖もひな壇状に造成され、崖も緩やかになりました。教室は大名屋敷が並ぶ惣構(そうがまえ)と言う城内の一部に取り込まれました。徳川家康が天下を取ってから、豊臣家と徳川家は何かと揉め、とうとう戦争に発展、庶民は我先にと逃げ、家々は焼き払われました。江戸時代に入ると教室周辺には、大阪城へ勤務する役人の住居が並んでいたようです。

 

歴史の壮大な流れの中に身を置くと人の一生とは何なのかと考えてしまいます。秀吉の辞世の句です。

 

『露と落ち露と消えにし 我が身かな 浪速のことは夢のまた夢』

 

栄華を極め、権力を欲しいがままにした秀吉でも、人生はあっけなくはかないものであったと言っています。人の幸せはお金でもなく権力でもないようです。

  テレビ朝日の番組「ポツンと一軒家!」を見て、辺鄙なところでさえ、幸福感に満ちた暮らしぶり、人間の幸せと言うものを考える良い機会となりました。

 

(写真上左:真田ロード、写真上右:大阪城南側の空堀、写真下左:空堀埋戻し時の陥没痕跡、写真下右:出城の真田丸跡)

日本の中世~玉造口黒門跡

 当レポートも段々、NHK番組のブラタモリ風になってきました。玉造中国語教室の周辺をもう少し探索しましょう。JR玉造駅の北側に建っている「黒門町」の記念碑に気付かれた方も居るでしょう。昭和54年の住居表示変更が実施されるまで、この当り一帯を「黒門町」と言いました(写真上中)。この当たりは大阪城の玉造口に位置し門が建てられ、その門が黒く塗られていたことから「黒門」と言われました。ちょうど玉造筋を挟んだ西側の「りそな銀行」の横に黒門は建っていました(写真下左)。豊臣秀吉時代の大阪城は現在の5倍の規模があり、周りを惣構(そうがまえ)で囲まれていました。惣構(堀・土塁)とは、城や城下町を掘や土塁で囲い込んだ外郭のことで、城内へ入る入口は制限されており、その一つが玉造口です。この黒門跡一帯は太平洋戦争で大きな被害を受け、史跡保存より街の復興が急がれる状況の中、「黒門跡」の記念碑を建てる余裕が無かったように思います。

 

昔は大和川からここまで「猫間川」と言う川が流れていました。サクラクレパスビル前の道路は、まるで川の流れのようにカーブしており、自然河川の痕跡を残しています(写真上左)

 

「猫間川」とはちょっと変な名前ですが、元々は「高麗川(こまがわ)」が訛ってこの名前になったとの説があります。猫間川は、森ノ宮から長堀通りへ出る手前で直角に西へ折れ曲がり、教室付近へ達し、また直角に南へ向きを変え、現在の「空堀町」へ続いています(写真下中)

 

舟を利用して真田丸への戦略物資の運搬に使われたと伝えられています。また大阪城の「惣構」(外堀)ともなっており、大阪冬の陣の後、埋められましたが空堀の路肩を削って急いで埋めた為に、空堀町11丁目では真ん中が陥没しているのが一目見て分かります。

 教室のある場所は三の丸と呼ばれ、豊臣秀頼に忠誠を尽くさせるために大名の家族を人質に住まわせた大名屋敷が集まって地区となります。教室はちょうど空堀の上に存在しているようですが、この地域は戦後 綺麗に整地され、今ではその痕跡を見付けることが難しくなりました。これまで3回に亘り、玉造周辺の縄文・弥生時代、豊臣時代、江戸時代を取り上げ、歴史と言う壮大な時間軸で人間の足跡を見て来ました。人間と言うのは「泡のように生まれ泡のように消えていく」、毎日が幸福になるように思って生きないと、あっと言う間に時間は過ぎ去ってしまいます。

 (写真上右:玉造付近の惣構、写真上中:黒門町の石碑、写真上右:猫間川跡、写真下左:りそな銀行横の黒門跡、写真下中:空堀町の道案内、写真下右:空堀町に残る陥没地形)

日本の古代~玉造中国語教室周辺

  大阪城西側の東横堀川に高麗橋と言う橋が架かっています。これが古代の大阪と高麗(朝鮮)の行き来した名残です。縄文時代・弥生時代には大阪平野の殆どは海で、僅か上町台地が半島のように突き出た陸地でした。ちょうど玉造中国語教室(以下教室に省略)西側の丘になっている地域が上町台地でNHK番組ブラタモリでも紹介されました。この上町台地は、上町断層と言う断層が隆起してできたもので、上本町から大阪城付近まで小山を形成しています。大阪城南側だけがなぜ空堀になっているのか長年の謎でしたが、上町台地の硬い地盤が出て掘れなかったようです。

 

教室から西北へ歩くと玉造稲荷神社に行き着きます。かなり急な坂になっており、昔はこの辺りまでが淡水の内海でした。大阪城はこの上町台地の最北端にあたり、内海の地形を上手く利用し、盛土によって造られました。難波宮はかつて都が置かれていた時の宮殿跡ですが、この上町台地の中央の最も高い所に造られ、ここから上町台アーバンライフマンション付近(教室から北西200mに位置するマンション)までは玉造谷と言う谷が存在し、当時、教室場所は内海の中でした。上町に対して谷町という町名は、ちょうど玉造の西側地域で上町台地が西側へ落ち込む低い地形であったことに由来しているようです。この落ち込む地形こそが、大阪を南北に走っている上町断層らしいです。この断層が動くとM7.5、段差3mのずれが発生するようで、とても怖いです。現在、大阪の金融街となっている北浜は、文字通り古代には、内海であった北の浜を指します。このように古地図からは色んなことが分かってきます。

 

古代には、渡来人の進んだ土木技術で大規模な治水・利水事業が行われ、人々が暮らしやすい地形に変えていきました。即ち運河の開拓で、大阪は水の都と言われ、大阪は橋が多いことでも有名です。東横堀川、長堀川、道頓堀川、土佐堀川など、河の名前が“掘川”と付けられ、運河であったことを物語っています。この堀川は豊臣秀吉によって整備されたものですが、既に三世紀の古墳時代にはこの内海の水を抜くために運河(堂島、土佐堀川)を開削する大規模工事が行われたようです。現在の中之島の大川で、高層ビル群の中に水を満々と湛えた川は、今でも運河の雰囲気を残しています。古代には高麗橋付近に難波津と言う大きな港があり、当時 朝鮮半島との交流が盛んでした。

 

島根県の玉造温泉と私たちの教室のある玉造が同じ地名になっているのは、渡来人と関係があります。島根県の出雲にも渡来人が多く移住し、大阪の玉造と同じように、勾玉(まがたま)と言う装身具を作っていました。この玉(ぎょく)はもともと中国伝統の翡翠(ヒスイ)の宝石で、今でも中国ではごく普通に店頭で販売されており、韓国では慶州で多く見られます。教室から歩いて10分、森ノ宮駅前に鷺森宮神社と言う小さな社が鎮座しています。古代朝鮮から二羽の鷺(さぎ)を持ち帰ったことが社名の由来になっていると日本書記には記され、森ノ宮の地名もそこから生れています。因みに教室の前にある蓮久寺は創建1616年、まだ比較的新しい寺院です。

 

このように難波は、渡来人の活躍した足跡が残っています。大阪には「阿倍野、法円坂、道頓堀、宗右衛門町、立売堀、大正」など由来のある地名が沢山あり、調べてみるのも面白いと思います。

(写真左:高麗橋、写真右:排水のために掘られた大川)

二十四節気と冬至

 今年の冬至は1222日です。古代中国では月の満ち欠けを元にした太陰暦を使っていましたが、困ったことに、暦と季節にずれが発生していました。そこで季節の移り変わりを知るために考え出されたのが、「二十四節気」(にじゅうしせっき)です。二十四節気を知らない人でも、「立春」、「夏至」、「秋分」、「大寒」、「冬至」、「啓蟄」などは知っているでしょう。このように一年の季節の移り変わりを二十四の節気で区分したのです。最も簡単なのは、春・夏・秋・冬の「四季」です。二十四節気は、一年間を24等分していますので、一つの節気の期間は約15日となり、最も昼の時間が短くなり、太陽が生まれ変わるとした冬至を二十四節気の起点としました。来年2020年の小寒は、冬至の二週間後の16日、大寒は120日と言った具合です。日本へ伝わったのは紀元6世紀頃の古墳時代に伝わりました。中国の紀元前3世紀頃の周、秦時代は冬の11月を正月とし、冬至を新年としていました。古代は冬至から一年が始まり、一番めでたい日であったのです。

 中国ではこの冬至に「餃子」を食べる習慣があります今から1900年前ごろの後漢時代の初め、長沙の「太守」に「張仲景」が就任した時、疫病が流行し、彼は官職を辞め、庶民の病気を治そうと決意しました。この時ちょうど真冬で、彼が故郷へ帰る途中、誰もが凍傷で耳が爛れているのを見て胸を痛めました。 彼らを何とか救おうと決意し、彼は街の空き地に小屋を建て、大鍋に羊肉、唐辛子と漢方薬を入れて、煮えた具材を細かく刻み、面の皮で耳の形に包んで一人2個ずつ分け与えました。人々はこれが耳の形をしているので、「寒さを払いのける“嬌耳”(可愛い耳)」と呼びました。彼は寒くなる冬至から大晦日まで続け、人々の体の血行も良くなり、耳の爛れも消えていきました。これが餃子の形が耳のようになっている謂れです。年が明け元旦の朝、人々は新年を祝うとともに、耳の爛れがなくなったことを大変喜びました。今では、どこの家庭でも、冬至の日、年越しの夜にはお祝いの食事として食べる習慣が受け継がれています。

弥生時代~邪馬台国と中国の関係

 

大陸からの渡来人のもう一つのルート 長江流域を紹介します。

 

秦(BC473年~BC226年)は、現在の江蘇省と浙江省にあった呉、越、楚を滅ぼします。その度に呉、越、楚(現在の蘇州・上海・寧波地域)の難民が舟で日本列島に逃れたそうです。その結果、日本人の75%は渡来人の血が流れているといわれています。

 

呉、越、楚という国は、中国第一の大きな川である長江の流域に位置しており、稲作、漁労、操船技術が発展していました。その頃の日本は弥生時代にあたり、“日本”という国ではなくて“小国がいくつも集まっている”状態、日本という統一国家ができる一歩手前の段階で、集落をムラとかクニと呼んでいました。その中でも有名なクニが、福岡県の博多にあった「倭奴国(わのなこく)」です。倭奴国の遺跡で有名なものは、佐賀県にある「吉野ケ里遺跡」です。王のもとに国がまとまり、中国とも交流、 身分制度や税制、市などもあったようです。この弥生時代は紀元前後の数百年間も続きました。

 

日本で小国が乱立しているころ、中国では朝鮮までも勢力下に収める“漢”という大きな国が統治していました。倭奴国は『わしらは漢と関係を持っており、他のムラやクニとは違い、格が上なんだぞ!』と箔を付けてもらうために漢に使者を送りました。中国史書には、紀元107年には「倭国王の師升(すいしょう)らが、中国の皇帝・安帝に生口(奴隷)160人を献上した」とあり、倭奴国はこの後何回か使者を送り、その見返りとして、紀元57年後漢皇帝・光武帝が倭奴国に使をよこし、倭奴国に金印を綬与、中国の従属国として認めたのです。江戸時代 福岡で農民によって偶然発見された金印には“漢倭奴國王”という刻印があり、これにより倭奴国の実在が証明されました。この「師升」が初めて外国へ渡った日本人と考えられていますが、果たしてどのような人物であったかなど良く分かっていません。

 

中国の歴史は大変解明されています。日本ではまだ文字を持たず古代に関する文献がなく、日本の歴史は良く分かっていません。紀元3世紀にやっと邪馬台国の女王 卑弥呼が登場しますが、その邪馬台国はどこにあったかも結論が出ておらず、まだ古代の歴史が解明されていません。

 

当時の日本は中国の属国関係に近い状況で、中国史書にこの時代の色んな国名・地名・人物名が出て来ます。「倭奴国」、「邪馬台国」、「卑弥呼」などです。しかし見ての通り、実に変な漢字を使っています。「倭」は背が低い奴ら、「邪馬台国」の邪は“よこしま”、不道徳な馬の意味、「卑弥呼」の卑は“いやしい”、身分が低い意味を持っています。以前「匈奴(きょうど)」の意味は“死者を抱える奴ら”であることを紹介しました。何でこんな変な名前を付けたのでしょう。理由は次号で紹介しましょう。

 

(写真:佐賀県の吉野ケ里遺跡)

弥生時代~日本の基盤を作った渡来人

現在、この歴史編で紹介している2000年前の漢時代には、中国大陸から日本へ多くの人々が渡来して来ました。渡来は「朝鮮半島を経由する渡来」と「現在の長江流域(江蘇省)からの渡来」の二手に分かれます。今回は、まず朝鮮半島からの渡来についてお話ししましょう。

紀元前、高麗(高句麗)と言う帝国が中国東北地方・朝鮮半島の大部分を支配し、中国文化を取り入れた強大な先進国を築いていました。高麗(こま)はもともと満洲高原の騎馬民族とされ、紀元前2世紀には朝鮮半島から最初の渡来人が日本へ押し出されます。日本は韓国南部の伽耶かや)と言う地域に「伽耶日本府」と言う「出先統治機関」を置いたと「日本書記」に記録されています。

百済、高句麗、新羅と大陸から王や官僚、武人、学者、技術者など大陸の戦乱を逃れたい人々が、この伽耶(かや)から日本へ移住を繰り返しました。当時の日本の人口は僅か59万人、中国も2千万人程度です。集団丸ごと日本に漂着、既存の日本人渡来集団に取り込まれ組織化されていき、日本の基盤作りに貢献しました。渡来人は先進技術をもって、軍事・政治面に重要な位置を占め、文化の発展にも大きく寄与、716年 大和朝廷は関東各地に散っていた高麗人(こまじん)を現在の埼玉県日高市へ移住させ、辺鄙な武蔵国の発展に尽くさせました。

平成天皇はこの高麗に興味を持たれ、2017年9月に埼玉県の高麗神社をご訪問、高麗が滅んだ理由などを宮司に質問されていました。今年9月18日の東京テレビ「朝の! 散歩みち」でも紹介され、宮司さんは神社の由来を次のように説明しています。

『この神社は朝鮮半島から中国東北に掛けて、繁栄していた高麗人が日本へ渡来し、高麗王族の高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)をお祀りしたものです。666年に高麗王若光は使いとしてやって来て、本国へ戻る予定でしたが、668年に高麗が唐に滅ぼされ、戻れなくなり日本に土着しました。この高麗神社は出世の神様として有名で、ここを参拝された6人の政治家が後に首相になりました』。

さらに詳しく知りたい方は、埼玉県日高市のホームページ「高麗郡建郡1300年の歴史と文化」を訪問下さい。

このように弥生時代から古墳時代には、大陸からの難民が何度にもわたって渡来、土着の縄文人を巻き込み日本の生産形態を採取、狩猟から農耕生産に切り換え、農耕中心の社会システムを作り上げ、本年の新年号で紹介した「陰陽五行思想」の始まりともなりました。渡来人が集中的に移住した地域は、岐阜・山梨・愛知・大阪・群馬など各地に存在します。関西では、当時湿地帯だった大阪平野を渡来人が進んだ土木技術によって住みやすい地に変えていき、天王寺付近は今でも非常に寺院が多く残っており、渡来人が多く住んでいた痕跡を示しています。一般に弥生時代は馴染みが薄いですが、発展を遂げていたことが分かって来ました。

 (写真左:伽耶の位置、同右:高麗神社)

河を跨ぐ万里の長城

以前から、万里の長城が河をどのように跨いでいるのか興味がありました。河北省と遼寧省の省界に万里の長城で唯一河を跨いでいる箇所があります。ここを九門口水上長城と言い、今から1500年前のの時代に建築され、長さは110m2002年に世界遺産に登録されました。

河をダムのように堰き止め、河底を深く掘り、河底には上流から下流まで“水条石(泥岩)”を敷き詰め、石の表面には溝を付け、溶けた鉄を流し込んで繋いで大きな一枚岩にしました。

河を越える長城は、防衛上の弱点となるので、要塞の機能を持たせ強固に造っています。橋の両側には水牢と呼ばれる橋頭堡が設置されており、それは「竪井戸(たていど)」のように見え外側の周囲を石、内側はレンガで築き、この構造は長城の関所の中で唯一無二だと言われています。門扉と外側の射撃穴が設けられ、敵兵が城の下に攻めて来た時、射撃孔から弓矢を射て来襲した敵を倒します。もう一つの目的は、捕虜を閉じ込めるためでした。

さらに驚くべきことに、兵士が密かに敵の裏側に回って攻撃できるように、山に長さ1kmのトンネルを城壁の向こう側まで掘っています。トンネルには作戦室、炊事場、指揮室、兵器室などがあり現代と変わりません。河を跨ぐ城壁は敵にして見れば攻め易く、幾度となくここで激しい戦いがありました。

 

現在の九江河はすでに干上がりましたが、ゴム膜による堰を造って水を貯め、昔の姿に戻しています。

(写真上:全景、写真下左:トンネル入口、写真下右:水

漢の時代~韓信の股くぐり

3月2日のニュースである有名な政治家が言った「私も股をくぐれと言われれば、なんぼでも・・・・・」の記事が目に付きました。この「股をくぐる」とは、どんな意味があるのでしょうか。 紀元前200年前の頃の話しです。以前、韓信の話をしました。秦を倒して漢王朝を打ち立てたのは劉邦ですが、劉邦には韓信と言う戦略家が居たからこそ天下が取れたのでした。韓信は江蘇省淮陰県の貧しい家に生まれ、毎日の食べる物にも困り、品行も悪く毎日ブラブラして過ごしていました。ただ腰には長い剣をいつも携えており、ある日街を彷徨っているとチンピラに「いつも剣を持っているが、死ぬのが怖い臆病者だろう。その剣で俺を切ることが出来るか?出来ないだろう!出来なければ俺の股の下をくぐれ!」と絡まれました。韓信は言われるがまま少年の股の下をくぐり、臆病者と街中の笑いものになりました。これが故事成語の“胯下之辱”になっています。「大志を抱く者は、さまざまな屈辱に耐えなければならない」と言う意味です。韓信からしてみれば、剣を抜いて相手を倒すことは可能でした。しかし、大志を抱く者にとって、万一些細なことで命を落とすようなことが有っては、念願の夢が果たせない。韓信は望み通り、その後、劉邦の部下となることができました。大局を見て柔軟に兵を動かす戦略眼を持って指揮をとり、前号で紹介したように「背水の陣」も韓信が考え出したものでした。僅か2千人の兵で20万人の軍を破っています。その卓越した作戦能力から“国士無双”と呼ばれました。国士無双の意味は「国の中で他に比べる者がいない程、優れた人物」のことです。麻雀を知っている人なら役満の一つの「国士無双」が分かると思います。 故郷の淮陰に凱旋した韓信は、腹を減らした時に食べ物を分け与えてくれた老婆には、使い切れないほどの大金を与え、股をくぐらせたかつてのチンピラを呼び出し「お前を殺すのは簡単だったが、我慢をしたからここまで出世した」と言いました。この過去の遺恨を晴らすような行為が良く理解できません。大きな志を持った人間なら、チンピラの言ったことなんか放っておけば良いと思いますが…。その後、故郷の旧知の友が韓信に助けを求めに来ますが、その友は劉邦にとって敵対関係であり、敵を匿った謀反の罪で処刑されてしまいました。中国古代では、謀反を企てた者に対しては、とても酷い刑を行います。 ところで中国に来た時に注意して頂きたいのは、(この逸話は誰でも知っています)広場で遊んでいる子供さんに、決して股くぐりをさせていけません。後でてんやわんやの大騒ぎになることは必至です。過去に見聞していますので十分ご注意ください。他人に股をくぐらせることは最大の屈辱になり、慰謝料問題に発展します

 

(写真;股くぐりの様子)

中国人は関西人に親近感を抱く

本号で100回目の投稿となりました。

今回は中国メディアでホットな話題になっている“関西”についてお届けします。

関西を旅行する中国人が増えています。中国人が関西を旅行すると何か懐かしい郷愁を覚え、また大阪人に親近感を抱き、日本をまた訪問したいと思って中国へ帰国します。

中国人が関西を旅行すると、古代中国の漢・唐の雰囲気が残っていると感じます。「漢・唐BC206AC220は日本に在り、宋・明(AC9601644)は韓国に在り、民国は台湾に在り、清(AC16441912)は中国にある」との言い方が中国にあります。京都は西安と同じように碁盤の目の街になっているし、唐の時代を思わせる木造建築物が至るところにあります。標識には漢字が使われ、京都の街並みは中国古代の街並みと同じです。下の写真を比べて見れば雰囲気が似ていることが分かります。日本がかつて中国大陸から、都市の区画、 建築などを学んだためで、日本では大切に保存・継承してきました。中国の都市ではこのような古代の街並みはもう一部にしか残っていません

中国人観光客に人気のある京都について、中国メディアは日本で最も「中国風」の都市だとして紹介しています。

京都では洛北、洛西、洛東、洛南と言う地名の言い方が残っています。中世の時代は京都へ行くことを「上洛」と言いました。唐の時代には、長安と洛陽の二つの大都市があり、京都はこの二つの都市をそれぞれ右京・左京で模して造営しましたが、右京が衰退、左京が繁栄し洛陽の洛が名残となりました。

前号で紹介した陰陽文化、本号の古代の街並みなどから、日本文化の起源と基礎は中国文化にあることは疑う余地はありません。しかし、技術の上では中国文化を受け継ぎましたが、長安の都を模した京都では流石にあの巨大な城壁までは導入しませんでした。漢字を導入しましたが、中国読み(音読み)とやまとことば読み(訓読み)の両読み方を採用しました。 日本の伝統的な精神を忘れずに、巧みに両者を調和させる日本人固有の精神が感じられます。

こちらの中国メディアは大阪を最も日本らしくない都市だと紹介しています。ある大阪在住の中国人は、「大阪人は日本人だけど、まるで中国人みたいだ」言います。東京人は他人行儀で社交辞令を好み、あまり他人に踏み込まないため冷たい印象を持ち、電車の中では小声で話します。大阪人は率直、世話焼きな人が多く、情が厚く人情味があり、電車の中で大阪人は楽しそうに会話していると紹介しています。

特に関西のオバサンは中国メディアでも取り上げられています。オバサンは、中国では当て字として“欧巴桑(ou1ba1san1)”を使っています。中国では日本人女性といえば「淑やか」いうイメージがあるのですが、「大阪のオバサンは、中国人が抱く日本人女性と異なる」と伝えています。ヒョウ柄の服が好きで髪の毛も派手な色に染め、お店で値切るのも得意だと伝え、買い物に行けば「にいちゃん~これ高っいわ~。こんなん買われへんで~」とオバサンの喋り声は、まるで喧嘩をしているように聞こえるそうです。中には“大阪欧巴桑究竟是一种什么的生物?「大阪のオバサンって、一体どんな生物の一種?」と伝える少々過激なサイトもあります。しかし、実は中国にもオバサンは居るのです。“(da4ma1)と言う新語まででき、お揃いの派手なユニフォームを着て、広場で大音量で音楽をかけてダンスを踊ったり迫力満点、中国のオバサンも負けていません。関西のオバサンは、たこ焼きや串揚げと並ぶ大阪の名物だと言っています。

しかし、記事では最後に、関西のオバサンに実際に接してみると、とても親切で世話焼きで、率直で本当に良い人たちだと結んでいました。

 

(写真上左;中国山西省平揺に残る古代の街、写真上右;京都の清水寺二年坂参道、写真下左;西安善寺、写真下左;奈良唐招提寺)

 

劉邦と韓信~背水の陣~

この話はまだ紀元前204年、日本は弥生時代が始まった頃の話です。少し秦から漢までの流れをおさらいしましょう。秦の始皇帝が巡行中に突然崩御し、二世皇帝となった()(がい)は、始皇帝陵や阿房宮(あぼうきゅう)の完成を急がせ、その圧政に耐えきれなくなった民衆は次々に蜂起。 秦に滅ぼされた楚国の将軍の孫である項羽と江蘇省(はい)(けん)の劉邦も立ちあがり、項羽と劉邦の二人は協力し助け合い、戦いの中で義兄弟の契りを結び、力を合わせて秦を倒しました。 しかし秦が倒れると、二人は天下を奪い合う手強いライバルへと変わっていきました。

韓信は楚の国の一兵卒でしたが、項羽は韓信の才能を認めませんでした。そこで韓信は漢の劉邦の元へ出奔します。劉邦はよく家臣の言うことに耳を傾け、家臣団の言うことを信じ、韓信を大将軍の地位へと大抜擢します。まさにここが、項羽と劉邦の違いでした。

劉邦は(しょう)(おう)20万人の兵士を引き連れ自分を滅ぼしに来ると聞きました。そこで韓信に2千人の兵士を連れ、山脈を通って敵の本拠地近くに潜んでいるようにと命令を出しました。趙王はそのことに気付いていましたが、たかが2千人と高をくくって放っておきました。韓信は趙国にスパイを送っており、軍備会議で趙国が攻めて来ないことを知っていました。その後、1万人の兵士を出し河辺で敵の迎え撃ちを命じました。普通、陣地は後ろを山、前を川にするものですが、趙の兵士は「あいつらは、戦のことが何も分かってないぞ」と馬鹿にし、一気に攻め落としてやろうと残りの全ての兵士を突撃させました。その時、潜んでいた韓信の2千人の兵士が敵の本陣を占領し、多量の劉邦軍の軍旗を上げさせ、大軍が攻め落としたと勘違いさせたことにより趙軍は総崩れになりました。

これは、常識に頼らない数少ない戦法の一つと言われています。でも当時の背景を考えるとやや違います。軍と言っても徴兵された農民や市民で流浪の集団ですから、数が少なく負けると分かっている戦に、とても真面目に戦うとは考えられません。

 

河辺に追い詰められた人々がメチャクチャ頑張らされたと言うことです。「背水の陣」とは、『退路を断って必死に努力し成し遂げる』との美談の精神論で使用されていますが、古代ではやる気のない集団に対する喝を入れる方法として、時々色んな場面で使われました。中国語の故事成語では、背水一战となります。歴史にもしもはありませんが、この捨身の戦法が成功したから良いものの、失敗していたら、日本の奈良時代が存在したかどうか怪しいです。

(写真右:河北省井軽口県の古戦場看板)

漢の時代から学ぶ~四面楚歌と捲土重来~

最近、日本のスポーツ界ではパワハラの話題で賑やかですが、以前、日大アメフット部の反則タックルが世間を騒がせました。ニュースの見出しは、「定期戦中止で追い打ち 四面楚歌の日大アメフット部、いよいよ窮地に」(サンケイ)。「日大アメフット部、四面楚歌 対戦再開めど立たず父母会も反発」(サンケイ)が目に付きました。この四面楚歌ってなんでしょうか。漢字から意味を想像するのは完全に不可能ですので、国語の試験に出ると困ります。

戦闘が大変強かった項羽ですが、とうとう紀元前202年、60万もの兵を持つ劉邦に四方が山々の土地に追い込まれてしまいました。兵糧攻めにあい、兵士の数は減り、食糧も乏しくなってきました。これが有名な「垓下(がいか)の戦い」です。

夜になる項羽軍を囲む四方から、劉邦軍の兵士が楚の民謡を歌う大合唱が聞こえてきます。この歌に、楚国の「なまり」があったことから、楚から寝返った兵などに歌わせていました。これが誰でも知っている故事成語の「四面楚歌」です。敵に囲まれて孤立し、助けを求められないことのたとえ。周りに味方がなく、周囲が反対者ばかりの孤立無援の状況を言います。この歌を聞いて、楚の多くの将兵が涙をながし、望郷の想いに耽りました。そして、ある者は故郷に帰る為に脱走し、またある者は、負けを認めて漢に投降していきました。こうして、ほとんど将兵が、項羽のもとを去っていったのです。寝ていた項羽も、この歌が耳に入り起きてきます。四方を敵に囲まれ、楚の国もとうとう漢に下ったかと嘆きました。

実はこれは劉邦が考えた心理作戦が成功したのです。項羽は情に深かったのですが、嫉妬心、猜疑心が強く、部下への論功褒賞もあまりせず、人使いに長けた劉邦が形勢を逆転させました。組織の長は自身が優秀であるより、政治家が官僚を使うように優秀な人材を使いこなせる事が重要となります。これが会社などで、特に優秀でもない人が出世していくパターンです。

強い項羽が弱い劉邦に敗れ、最後の場面でも苦労を共にした部下を案じることなく、愛人の虞美人と愛馬の騅(すい)を気にするなど、つまり負けるべくして負けたのです。

項羽は垓下の戦いで敗れ、28人の部下を率いて、烏江(うこう)まで落ち延びていきます。項羽もここを最後の場所と覚悟を決めますが、この土地の長がこの船に乗って長江を渡れば、敵はついて来れません。「一度は失敗したが、再び土煙を巻き上げるように、もう一度盛り返しましょう」と或るものが項羽を説得します。これが成語の「捲土重来(けんどちょうらい)」です。しかし、項羽は自尊心がそれを許すことができず、ここで壮絶な最後を遂げました。

 

(写真左: 垓下と鳥江の位置、写真右:垓下の古戦場跡)

中秋節

中秋節は中国の伝統的な祝日です。史書によりますと、最初に「中秋」と言う言葉を記したのは「周礼」でした。唐代に入って祝日として決められるようになり、宋代に入ってから中秋節は流行し、明、清になって、春節と肩を並べるほどの重要な祝日の一つとなりました。

中国の旧暦では、1~3月が春、4~6月が夏、7~9月が秋、10~12月が冬です。現在使われている新暦では約2か月遅くなります。中秋節は旧暦の8月15日で、今年は9月24日に当たり、9月22日~24日まで三連休となります。旧暦では、8月は7~9月の秋の中間にあり、「仲秋」と呼ばれています。

この仲の中は旗竿に旗が舞う状況を表します。即ち中央の意味です。仲の亻は人の形を表し、仲とは中央の横に並ぶ人を意味し、即ち二番目の意味を持ちます。

中秋節の主な活動は「月」をめぐって行われ、月のように円満に一家団欒を祈ります。この時、世話になっている人に「月餅」を送る習慣があります。「月餅」は丸く、周囲には花びらが刻まれています。中秋節でも春節でも、中国には「団欒」という習慣が残っています。春節や中秋節、または誕生会など離れ離れになった家族・縁者、親しい仲間が集まって宴会で楽しく時を過ごします。中国では実にこの種の宴会が多いのです。街の宴会場は大なり小なり宴会が開催され、いつも満員です。この辺のところが日本とは異なるところですね。日本で宴会と言えば、会社の歓送迎会・忘年会・新年会などですが、中国では親戚家族・親しい仲間・友達などが集まり、いつも宴会が行われています。中国の人間関係はこのように濃密で、日本の人間関係は希薄と言えるかも知れません。日本で滞在している中国留学生などは、「帰国すると疲れる(笑)」とか言っています。

中国の皇帝はこの8月15日に、豊作を祈って月に祈りを捧げました。現在の中国の人にとっては、中秋節は家族団欒の日です。家族全員がテーブルを囲み、月餅を食べ、お月様を眺めます。その日、家を離れている者が居たならその人に月餅を残しておき、互いを思いやる心を一つにして空を見上げ、同じ月を眺めるのです。

以前私が、教室の学習発表会で披露した漢詩をご紹介しましょう。中国では小学2年で学びます。

 

 

 

靜夜思(静かな夜に思う)      唐 李白

 

床前明月光,(静かな秋の夜、ふと寝台の前の床にそそぐ月の光を見ると)

 

疑是地上霜。(その白い輝きは、まるで地上におりた霜ではないのかと思ったほどであった)

 

舉頭望明月(そして、頭(こうべ)を挙げて山の端にある月を見て、その光であったと知り)

 

低頭思故鄕。(眺めているうちに遥か彼方の故郷のことを思い、知らず知らず頭をうなだれ、しみじみと感慨にふけるのである

 

 

漢の項羽婦人~虞美人とは

始皇帝亡き後、各地で反乱が起き、諸侯たちは天下を取ろうと策略を巡らせ、その中に戦闘に長けた項羽と劉邦がいました。二人は同じ楚の国の出身で、相互不可侵契約を結び、最初こそお互いに協力して秦を攻めましたが、最後には頂点に立とうと項羽と劉邦は激しく対峙するライバル関係になりました。最初は項羽が優勢でしたが、徐々に追い込まれ、遂に垓下(がいか)いう所で劉邦軍に包囲されてしまいます。その時の項羽が歌った詩に『力抜山兮気蓋世,時不利兮騅不逝。騅不逝兮可柰何,虞兮虞兮柰若何(力は山を抜き気は世を蓋う(おおう)。時不利にして騅(すい)逝かず。騅行かざるを奈何せん。虞(ぐ)や虞、汝を奈何せん)』とあります。翻訳すると、かつては山を引き抜き気迫は世を覆うほどの勢いがあったのに、今は敗けが決定的となり、愛馬の騅もとうとう進まなくなってしまった。「敗戦が決定した今、騅をどうしたらいいだろう。虞や虞、お前をどうしたら良いのだろう」と虞を二回繰り返し、悲哀に満ちた詩から当時の項羽の無念さが伝わってきます。

この虞というのが項羽の妃でいつも項羽の傍を離れず、戦場にもいつもついていきました。

 

美人と云うのは、現在では美しい女性の代名詞として用いられていますが、古代では皇帝の妃・妾の称号を表す敬称でした。漢の時代の妃には、14等級あり、美人は5等級に位置します。以降明の時代まで使われました。美人以外に「夫人、良人、八子、七子、長使、少使」などがあります。虞は一族の名前です。中国の有名な四代美女の一人です。項羽は涙を流しながら、「死なずとも劉邦に仕えたらどうか」と虞美人に伝えましたが、彼女は「忠臣は二君に仕えずと言います。あなたよりも先に逝きます」と答えました。それを聞いて、項羽は剣を抜き、虞美人に背を向けて剣を渡しました。虞美人は項羽の歌を聴くや剣の舞を舞った後、項羽のために自害しました。項羽と恋愛の末、悲しい結末に終わった話は有名で、これまで「項羽と劉邦」と言うタイトルで映画化されたり、宝塚歌劇ではミュージカルにされたりしています。その後、項羽も敵に討ち取られ、虞美人を葬った後には、虞美人草が咲いたと言われています。虞美人草とは「ひなげし」の別名となっています。項羽は、このように人間味に満ちた人でもあったのですが、項羽の詩を読んでどう感じましたでしょうか。最近或る一説では、組織の長として部下よりも愛馬や恋人を心配するとは如何なものか? ビジネス書では、部下の離反を招く要因にもなったのではないか云う論評もあります。次号でお話ししましょう。(写真:虞美人草(ひなげしの花・別名:ぐびじんそう)

時代は奏から漢へ~左遷の謂れ~

さて時代はいよいよ秦から漢へ入ります。漢王朝は秦滅亡後、400年に亘り中国を統治し、現在私たちが使っている漢字、漢詩、暦の曜日もこの時期に体系が完成しました。そして漢と言えば日本でも有名な項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)の二人の英雄、また歴史で習った「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」ですよね。まず項羽からお話しをしていきましょう。紀元前210年、秦の始皇帝が大軍を率い、最後の全国巡遊に出掛け、蘇州市を通った際に見物人の中に項羽がいました。項羽は「フン、偉そうに威張り腐って、俺だってヤツに取って代わってやる」とつぶやきました。項羽の父は楚(浙江省)の名将の項燕で、項羽は名門出身のエリートでした。それに対して、劉邦は、ヤクザの親分で、最終的には劉邦が天下を取るのですが、この二人は対比してよく比較されます。

叔父の項梁が項羽に字や剣術を教えても彼は学ぼうとしませんでした。「字が書けても秦へ送る親書を書く役人にしかなれない」「剣術を学んでも数人しか倒せない」「私は大軍を率いて戦闘する能力を身に付けたい」と言いました。23歳で兵を挙げて、70回以上の戦争を経験し、実は項羽は、己の力を頼るあまり、部下を正当に評価せず、自惚れていましたので、部下の心を推し量る能力もなく優秀な部下は去っていきました。項羽は力任せに、秦の強力な軍と激闘を繰り返しながら、秦の都の咸陽(現在の西安市の西側)を目指します。当時の楚の国王は、先に咸陽へ入った者に対し、関中[注1]の領土を与えると約束していました。しかし先に、劉邦が咸陽を制圧してしまいました。項羽はエリート中のエリート、劉邦は農民出身でしたので、項羽にとって、俺より身分の低い者に先を越され腹立たしく思っていました。そして劉邦は項羽によって、辺境の地の漢中(西安市の南西)へ追いやられてしまいます。これが左遷の語源となっています。

漢中は地図上では左側にあり、中国では左より右を尊ぶ観念があります。日本ではひな祭りの雛壇の「左大臣」は「右大臣」よりも上位、中国とは逆になっており面白いですね。国際マナーでは人が並ぶ時は、主人から見て左側より右側が上位ですので覚えておいて下さい。よく「彼の右に出る者はいない」と使いますよね。したがって、降格することを左遷(右から左へ移る)と言い、これが左遷の由来となりました。このように2000年前の文化・習慣が長年に亘って受け継がれ、歴史を学習するとその背景が分かってきます。(写真左:西安地域の地図、写真右:現在の咸陽市)

[注1]「関」の中国語は关”、「繁体字」で書けば“關”となり、「門がまえ」の中に松明(たいまつ)のような象形文字を示す。“關”(関)は「要所」、「砦」の意味を持ち、秦の時代 “函谷关”より西域を“关西”(関西)と呼び、同じように日本の関西・関東は、それぞれ西の要所。東の要所の意味を持つ。「関中」とは要所の中の最も重要な地域となる。

再び戦乱の世へ~「決断」の由来について

秦の終末期においても匈奴の侵入にも苦しんでおり、農民を徴兵し北方の警備に回していました。河南省出身の農民の“陳勝”“呉広”は900人の農民を引き連れ現在の北京北部の蜜県へ向かっていました。紀元前209年7月、この頃、中国南部は梅雨の季節で度々大雨が降ります。道路はぬかるみ、所々で道が水没、思うように行進のペースが上がりません。当時の秦の法律では、遅刻はどんな理由があろうと絶対に許されず死刑が待っていました。

その時、民衆に演説した時の有名な名言が以下の言葉です。

“王侯将相寧有種也!”(王侯将相いずくんぞ種あらんや!)。  

「王族、諸侯、将軍、宰相、みんな同じ人間であって、身分なんぞ、後から定められたにすぎない!だったら、俺が皇帝になってもおかしくはないはずだ!」

周りの人たちもどうせ遅れて到着しても殺されますので、これに賛同します。殺されなかったにしても労役で死ぬか、帰り道で死ぬこともありました。つまりどっちみち死ぬならとヤケクソで起こした暴動は強いのです。

人生において決断とは、その機会を逃せば二度と訪れることはありません。大きな決断とは人生を左右します。しかし、すぐに決断を下せる人は少なく、わずか5%未満と言われています。ほとんどの人が失敗を恐れて、決断を先送りし、現状維持に陥ってしまいます。ある有名な上場企業の経営者は「決断しないことは、逆に無駄な時間を浪費していくことだ。ひとたび決断したら決してぐらつかないことだ」と言っています。さて、この「決断」の語源は、何かを決める時は何かを断つことを意味します。このコラムで紹介した紀元前20701600年の“夏”王朝の“兎”王が、河川が氾濫した時に、どこの堤防を決壊させるか、犠牲となる集落を決めなければなりませんでした。

即ち“決断jue2duan4”とは「堤防を断つことを決する」の意味で、どの集落を残し、どの集落を捨てるかを収捨選択することでした。つまり最優先事項は何で、何を捨てるかを合理的に決めていくことが、「決断」なのです。

実はこの「決断」に“陳勝”“呉広”も迷いました。二人は事が成就するかどうかについて易者を訪ねています。彼らの心中を察した易者は、「事業は成功するが、鬼神の力を借りるのが良いと言いました」。これを聞いた陳勝らはこの時に民衆の支持を集めるため、陳勝は始皇帝の長男の扶蘇、呉広は楚の大将の項燕を名乗りました。始皇帝の長子にして悲劇の皇太子である扶蘇と旧楚の英雄である項燕は庶民に人気があり、多くはその死を知りませんでしたから、二人はそれを利用し、ここに初めて中国で最初の農民蜂起を起こし、ここから秦が滅亡するきっかけをつくりました。さて、彼らがすがった占いですが、中国では紀元前の春秋戦国時代から発達したと言われています。占いと言いますが、今の中国の人々の根底の考えを為す一つの哲学です。陰陽文化とも言われています。また後で紹介しましょう。

 

物事の先駆けになることが、“陳勝呉広”(chen3sheng4wu3guang2)という成語になっていますが、この反乱も僅か6か月しか持たなかったために「先走り」という反語の意味も加わりました。次回から司馬遼太郎の小説で有名な古代の英雄、項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)が愈々登場します。(写真左:決起の様子、写真右;陳勝呉広決起場所跡の石碑)